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平成7年(1995年)1月17日、淡路島北端町野島断層を震源とするマグニチュード7.2の「阪神・淡路大震災」が起こりました。あれからもう8年。多くの犠牲者のためにもその教訓を生かし、風化させないように後世に伝えつづけることが大切です。
今治市で自然農法に取り組む藤堂和也さんは、今でも1月17日が近づくと「震災直後に海上から見た神戸の惨状が脳裏に浮かぶ」と言います。
藤堂さんは元大型フェリーの船長で、東神戸港着岸寸前に震災に遭遇。すぐさま沖合に緊急避難し、間一髪で大惨事を避けることが出来ました。震災の体験から得た生命の尊さへの思いを胸に刻み、「いつまでも農業を続け、安全・安心な食べ物を作っていきたい」と心に決めています。
藤堂さんは、退職後、地元の「自然農法倶楽部」に所属しています。タマネギやジャガイモ、米、大豆などを無農薬で栽培したり、休耕田を利用し消費者に農業の楽しさを伝える「期間限定貸農園」など、ユニークな活動を展開。「昨年、試験栽培したエゴマを軌道に乗せるのが今年の課題」と、テーマを決めて第2の人生である“農業”にかけています。
 「自然農法倶楽部」の会員は、約30人。地元今治や松山からの参加者もいます。同倶楽部代表の檜垣健吉さんは、「異業種の人間集団。みんなが協力し、アイデアを出し合い、それぞれの持ち味を発揮している。農業活性化につながれば…」と新しい形の農業を実践しています。
 基本は、無農薬。すべての栽培はEM主体。現在、「木材チップ」「落ち葉」「海藻」に「ぬか」をまぜた植物性の堆肥を作っています。
「どのような効果があるかは模索中」としながら、「土作りを主体に、健康第一に考えた無農薬の安全な農作物を作るため」と力が入ります。
藤堂さんは、「農業の経験がなくても意欲さえあれば、無農薬栽培は可能」とキッパリ。
同倶楽部へは、定年退職後に「今治市農業講座」受講を経て加入しており、今ではトラクターや田植え機も乗りこなしています。
平成7年当時、藤堂さんは、愛媛と兵庫を結ぶ大型フェリー「おくどうご3」の船長でした。(以下、藤堂さんの証言を元に構成)
- 【16日 22時20分】
- 乗客248名、車両64台を積載した「おくどうご3」は今治港を定刻で出航。潮の流れは順潮。天候も良く、平穏な航海を続ける。(当時は、15日が成人の日。この年は15、16日が連休となったため、故郷で成人式を終え、関西方面に向かう若者らが多く乗船していた)
- 【17日 4時18分】
- 明石海峡西口に定刻より7分早く到達。冬の海にしては非常にめずらしく、「べたなぎ状態」(波がまったくない状態)。東神戸港到着は定刻より早い5時45分には下船が開始できるような航海プランを立てる。
- 【17日 5時27分】
- 各乗組員は入港配置につき、通常通りの着岸操船を続ける。
- 【17日 5時45分(地震1分前)】
- 第3岸壁に船首、船尾からそれぞれ最初のロープを送り、係留ビットに掛けた。(ロープは最終的に2本づつかけるが、このときは1本づつがたるんだ状態で掛かっていた)上陸ゲートまで20メートル。岸壁と船側の距離は1〜2メートル。
- 【17日 5時46分(地震発生)】
- 船底から突き上げる振動に思わず『これは何だ?』と叫んだ。スクリューが破損したのかと思った。ブリッジデッキでは、岸壁に亀裂が走り、駐車車両もろとも陥没した。陸上の構造物は大きく揺れ動くのが暗闇の中、船側の明かりで写しだされた。船内のダメージ、津波、余震、船内火災など、非常事態をどのように処理しようか様々な考えが浮かぶ。
- 【17日 5時50分】
- 各部の安全確認完了し、甲板部へロープ切断を指示。エンジン始動。『これで、いける』と思った。港外へ向かって微速前進。防波堤から1.8マイル沖で厳戒態勢をとる。無線系統がダメで、保安部との連絡がとれない。情報収集はテレビだけ。乗客・乗組員はテレビに釘付け。
- 【17日 6時45分】
- アンカーをおろし、停泊。
- 【17日 9時頃】
- 本社から、「大阪南港、泉大津には各フェリー岸壁の被害なく接岸出来る」との連絡がはいるが、大阪南港は相当混雑しており、泉大津と連絡をとる。
- 【17日 10時頃】
- 運航管理者がボートで来船。安全確認、現状報告、今後の予定を確認。
- 【17日 10時20分】
- アンカーを巻き上げ、泉大津へ移動を開始。
- 【17日 13時】
- 泉大津港岸壁に着岸完了。
- 【17日 13時55分】
- 今治へ帰路の航海につく。
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藤堂さんは、着岸予定を5時45分としたのに到着が数分遅れたのは「明石海峡で他社の大型フェリーと並航したため」と話しています。並航状態の明石海峡通過は危険を伴うため、減速して後続につくことを選択したことが微妙な時間のずれとなり結果的に幸いしました。
もし、予定通りの航海であれば、船は着岸し下船中だったことから、船内外は未曾有の大惨事になっていたことが予想されます。しかも、その日に限ってエンジンを早めに切ったため、「船底から突き上げる振動」をエンジンが受けず、震災後4分で再始動。防波堤の沖で厳戒態勢をとることができました。震災後、岸壁が海側に崩れたことを考えると、船長の迅速な決断が多くの命を救ったことになります。
震災時、乗組員がパニック状態だったにもかかわらず、冷静で的確な判断をとることができたのは、「緊張状態が極限に達し、それを超えると不思議に落ち着いたから」と藤堂さんは語ります。しかし、今治帰航時に海上から見た神戸の惨状と立ち上る黒煙に「人命救助の義務、使命感で心が揺れ動いた」と何かをやり残した重い気持ちが今でも心の隅に残っているそうです。
藤堂さんは、「農業を通じて、いつまでも人のためになるような生き方をしたい」と、第2の人生に磨きをかけています。
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