Q&A
Q1 書店でいろいろな占法書をみかけます。たとえば「奇門遁甲」や「四柱推命」ひとつとってもそれぞれの著者が、正統を自負し、正解であると云っています。なぜ「真伝」といえるのでしょうか?
A 暦やノウハウの原理の差異などいっぱいありますが、何といっても決め手は、「奇門遁甲」の作盤法に尽きます。原書で解釈する限り、十干を数に還元する計算式は存在せず、局数の定位に「戊」を置く方法が採られており、「真伝」以外の本はすべてこの方式です。
しかし、この方法だと、干の順序を覚えるのに手間がかかるばかりか、河図や洛書との原理的因果関係も解けず、陽暦換算(真伝)の「奇門遁甲」では、「天の時」の天干と地干の組み合わせさえ割り出すことが不可能になってしまいます。
一方、「真伝」では、当初の骨組みである数に干を還元するところから始まりますので、極めて簡単にシンプルな作盤ができますし、その結果は、ややこしい手順を踏んだ「原書」とまったく同一です。
この方法の(0イコール甲)の定義を欠くと、「奇門遁甲」そのものが成立しませんので、これだけでもバビロニア以前に「真伝」が存在していたことがわかります。
(六儀は庚とし、この干が甲になり、局数は1となります)

最も大切な(0イコール甲)の原理は云うに及ばず、暦の換算やノウハウに至っては史上初公開であり、北条書店以外にその権利を有するものはありません。ポイントを三つにまとめましたので、検証してみて下さい。
- 「奇門遁甲」の書籍が原書として存在し、その作盤法は「偽伝」として紹介している通りか?
- 原書の作盤法結果と「真伝」の作盤法結果に相違があるか?
- 相違無ければ、これらの公開は世界で最初であるか?
どなたにお尋ねになっても有識者であればあるほど、精通者であればあるほど三問すべてに「YES」と答えてくれる筈です。つまり、これが、正真正銘の「真伝」の証明であり、唯一と云える所以です。
Q2 テレビや雑誌で風水のことが喧伝されており、玄関の位置がどうだとか、多分に「家相」的な内容に終始しておりますが、これは本当に風水でしょうか?また、「奇門遁甲」とどのような関係があるのでしょうか?
A 結論から申し上げて、風水ではありません。
本来の「風水は」、変更不可能な自然の地理的条件から「竜の穴」という吉のエネルギーが集結したところを発見して、その位置に陰宅(死者の住む家、つまり墓)を設けて子孫の繁栄を計る術のことをいいます。
「奇門遁甲」はそのエネルギーを東西南北に動くことで、あるいは、アンテナを設置して受けるものですが、「風水」はマツタケや金鉱探しのように、自然の地理的条件の中からその位置を探査する術と思って下さい。
したがって、こちらの都合にあわせてくれる筈もなく、時間もかかるし、乱開発が行われるようになった昨今では、古代と違って現実には実用上、無理があると云わざる得ません。
喧伝されているものは、気学を応用した家相やそれに準ずるものであり、このような家相自体が根拠のないものです。
おそらく、商策上、実態と異なる「風水」の名称を使用しているのでしょうが喧伝の当事者自身もこれらのことは承知している筈です。
Q3 鑑定や講義、講習、勉強会のようなものはしていないのですか?
A 三つの理由があってしておりません。
一つは、あくまで紹介(公開)者であることと、先代との約束の為
一つは、読者が独習できる書籍や文書の提供に努めている為
一つは、他人の人生に無責任な介入をしない為
Q4 死期の種類だけど、病死が多いから四等分は無理ではないの?
A 種類としての四等分です。
死期については、耐用年数の目安のようなものですから、必ず、その時期に死亡するということではありません。また、四柱推命の蔵干のように、それが、天干に透出していなければ計算の対象の五行とならないのと同様、自殺も他殺も事故死も病死もすべて、ひとくくりに「病死」と定義づけられております。なぜならば、どのような原因で死亡するにしても病死一つしかありません。その究極をさらに細分したのが、通常の病死も含めた四種類ということになります。
そして、これらの要因があっても、先に述べた透出のようにある条件を満たすか否かによって発現するかしないかが決まります。ですから、無条件に前提としての四等分があるわけではなく、相対的には病死が三分の二を占めるという原理になっております。但し、一般書では、その点を省略しておりますので、詳細をお知りになりたい方は「専門書」を参照してください。
Q5 死期の公開は人を不安にするだけではありませんか?
A あくまで紹介に過ぎません。
前述したように、企業が製造する商品に耐用年数があるように、人が通常の環境や生活の中で起こりうる可能性としての傾向を学問上で正確に伝えているだけであり、絶対にそうなるというものではありません。黄帝に端を発し、諸葛孔明が駆使した命数の計算というものがどのようなものであったのかを紹介することに意義があるのです。従って、徳間書店刊の「諸葛流奇門遁甲」には、その辺のところを次のように説明してありますので、ご覧になってください。
四柱推命といっても国全体が貧しいところでの富貴の命式など、たかが知れていますし、戦争等が行われている状態では、これらの条件を超えてほとんどの国民が事故死や他殺となるわけであり、あくまでも、通常の条件下ということです。このあたりの説明は、当初から書籍や文書を通して折りにふれ、述べてきておりますので、大半の方には不要と思いますが、そうでない方がおられるかもしれませんので念の為に申し上げておきました。
尚、死期、すなわち、寿命計算の記載については、私が初めてではありません。西洋占星術や四柱推命の定義では中世の頃からの定番として、史書にその方法が説かれており、我が国においても、これらの本を書いている人は、各自が拠って立つところの占法では何がわかるかと前置きした上で「死期もわかる」と謳っております。唯、私の知る限り、彼等が記載している方法に不安を訴えた人の話など聞いたことがありません。
もっとも、明確な定義のもとに公開しているものが無かったのが原因かも知れませんが、それぞれ、一応の定義を掲げてこうすれば死期がわかると述べてあるのですから、もし私の命数の公開のみを対象にされるのでしたら非常に不思議以外のなにものでもありません。
それでも、不安原因となるのでしたら、その前に、以前からの歴史にも不満を訴えていなければなりません。更に、四柱推命や奇門遁甲、ならびに西洋占星術ほか、これらの占術を鑑定項目にしている一切を否定しなければ筋が通らなくなりますが、そのような方はおられないように思います。
とにかく、再三申し上げているように学術上の視点からみれば参考になることはあっても前述の説明の通り、不安材料になることなどはありませんので楽しく学んでください。
Q6 演義は小説であって、正史ではないから、命数などないのでは、また、孔明は「真伝」を駆使したのになぜ、敗れたの?
A 為政者が認可した歴史が正史です。
正史というのを正しい歴史の略と思っている方が多いのですが、時の権力者の検閲の上で書かれた史書のことを一般に正史といいます。聖書の新約と旧約を単に古い訳、新しい訳と勘違いしている人が多いのと同様です。従って、そこに記載しているものも虚実が入り混じっているものですし、一方、フィクションとしての定義付けの中でしか書けない真実というものも存在するものです。そこで、論理的検証が必要になってくるわけで、それらの手法を通じて、ご判断していただければおわかりになると思います。
また、孔明の無策を挙げて、命数、つまり、寿命計算法が無かったというのも矛盾が生じます。その主旨は、死期を計算できるのなら、敵の自然死を待って自らは養生していれば、寿命を延ばせたのではないか、そして、晋の建国を阻止できたとのことですが、この質問には大きな間違いというかパラドックスがあります。
まず 史書の経緯を信用してという前提で述べているものの、前述したように、それらの真偽のボーダーラインは曖昧であり、孔明の五丈原の戦いに至る経緯など、「正史」では詳細に述べておりません。ここら辺の経緯だけ演義を採用することも矛盾ですし、百歩譲ってこれで戦術の是非を問うのならば、演義にある劉表の「命数」を占った記述も事実として認定せねば一貫しません。これらを踏まえたらご質問の前提が氷解するものと思います。
それと八門遁甲は運命の金利を最高に上げる単なるツールですから、それ自体の真偽と結果は比例するものではありません。太公望や張良は元金の多い兵なり国なり人にこれを駆使したので、うまく運用して成功しましたが、孔明は少ない元金にこれを応用したので苦戦を強いられただけです。ゼロにいくら乗じてもゼロということを認識してください。
Q7 0イコール甲って単に干を数に置き換えただけ?
A 真伝の決め手です。
「0イコール甲」というのは、単に、甲を0に置きかえるということではなく、奇門遁甲のコアスキルである作盤が気学盤のもとである洛書の配置に則っているということを逆証明できる計算式として、十進法で説いてあるもので、その対応として甲が0でなければ、この計算式は成立しないことから、この結果のみを抽出して、この証明を「0イコール甲」と略して申し上げている次第です。
更に、この0の定義や概念は、相当古く、バビロニア以前に遡るということで、俗に中国の特定の地域発祥という由来とは異なるものであることも逆証明しているわけです。
原書(平たくいえば、中国で奇門遁甲のことを書いている古い本)には、枝葉末節こそ異なるものの、基本的な部分は皆、同じ作盤の方法が書かれてあるので、一般には奇門遁甲と洛書は無関係であり、当然、それをもとにした気学盤の配置や飛泊の順等は迷信と思われていたのです。
その為、0の存在しない九進法の数による後天定位のみを金科玉条とする簡単な判断の九星術(後の気学)が日本では繁栄し、一方、九宮を除いた判断を中心とする奇門遁甲があたかも史書で謳っているものであるかのようなふれこみで現在まで喧伝されているのが実情です。
真伝はここにメスを入れる為に、私が世界で初めて書物で公開したものです。この原理を使わないと、原書に基づく奇門遁甲でさえ、コンピューターソフトの作成すら非常に困難になることも認織してください。
たとえば、1枚の紙に100個の足し算の式を書くとすると、1+1を連綿と記述しなければなりません。何とか書けたとしても、これが1億個の足し算だとしたらどうでしょうか?とても、1枚の紙ではおさまりませんよね。
しかし、掛け算だとどうでしょうか?1億でも1兆でもそれ以上の単位でも、その単位名称の文字数掛ける1で済みますから1ページどころか、1行のスペースがあれば充分です。
プログラムも同様で、真伝の原理を使用しないで奇門遁甲のコンピューターソフトを作ろうとすると、万年暦や万年盤をそのまま搭載して検索抽出しなければなりませんから、容量が多くなり、フロッピー1枚には当然、納まらず、非効率この上ないものになってしまいます。
ところが、真伝の数換算に基づく計算式を用いると、10個の干ととそれに対応した数に真伝の公式をあてはめるだけですみますから極めて少ない容量で作盤表示ができますし、パソコンの処理能力も問いません。
巷では、原書にもとづく奇門遁甲のコンピューターソフトがかなりの数ありますが、上記の懸念材料のものがないとも限りません。これは、ユーザーには見えない部分のアルゴリズムですから、無断使用していれば、表示されない部分だけに極めて悪質な著作権侵害となります。
システムエンジニアにリバースエンジニアリングでプログラムの計算式の解析を委託すれば判明しますが、現時点では、時間的余裕がありませんので、いずれ時期がきましたら、一斉に、調査確認に乗り出そうと思っております。
万一、侵害者がいた場合は、仮に、急遽、作り直しや、出荷停止をしたとしても、既に頌布しているソフトが少なくありませんので、その事実を隠蔽することには勿論、処罰を免れることもできませんので、抵触されている方は、その前にライセンス契約を申し出てください。
このように、奇門遁甲のソフト1本を作る場合でも、「北条書店」の許諾を必要とする可能性が極めて高く、真伝の数換算に基づく計算式に拠らないアルゴのソフトがどのくらいあるかということからも真伝を検証してみてください。
Q8 非会員と思える人が専門書を見たといってるが漏洩しているのでは?
A 専門書というのが、何を指しているのか不明の状態では何とも申し上げられませんが、非公開の誓約を前提として頒布している図書が会員外に漏洩しているとすれば、現役会員に対しても、当方にとっても財物の窃盗罪に該当しますので、由々しき事態です。
そのような情報がある場合は、入手している人の所在と氏名等をお調べの上、当方までお知らせ下さい。漏洩ルートを調査の上、然るべき措置を講じます。
私の本の場合、海外で海賊版等が出回っているらしく、以前にも台湾の武陵出版社なるところが私に無断でこれらを製作頒布しているなど、これらも含めて今後、検討していく所存です。
Q9 一般図書と比べて高額なのはなぜ?
A 唯一のノウハウの提供料金です。
まず、書籍の場合、原価計算をもとに定価を決めますが、発行部数の多寡によってこれらは変動します。すなわち、大量であれば安く、少量であれば高くなります。
北条書店の場合は、後者であることに加え、書籍という媒体を通じてのノウハウ供与ですから、大半は、この代金と思ってください。
しかも、巷間の図書の場合は、著作権フリーの原書による同一内容の複製量販に対して当方の内容は世界に二つと存在しない「真伝」です。
これらを可能な限り、安価で頒布している上限価格が30万円ですが、ステレオやテレビ、パソコンの価格と比較すればわかるように、旧製品と差異の少ないモデルチェンジの価格の据え置きに比べ、当方ではアップグレード制を採っており、改定等の際の頒布価格は定価の一割としております。さらに、「真伝」に触れる機会提供の一助として一般書の「奇門遁甲」や「戦略万年盤」等については、徳間の新書判の読者を対象としたプレゼントの対象にもしてあります。
鑑定等を業としている方たちへ依頼した場合の支出の合計と比較してみるのも一考かと思います。
Q10 何十年も研究しないとだめなの?
A 個人差はありますが、一月もあればマスターできます。
世の中には、正解の必要なものとそうでないものがあります。
主観および客観を基準とする世界のようなもので、茶道や華道、芸術等に流派があるのは確かなものさしがなく、これには正解がありません。いずれも正しいといえば正しいものであり、これはこれで存在価値のあるものといえます。
一方、数学や物理は学術ですからその定義や計算の正解は一つでなければなく、この前提にたっている真伝は極めて明解な方程式で構成されており、当然、計算不可能な主観が介入する余地はありません。ちょうど天動説と地動説のような構図と思ってください。地動説の正しさは論理的、客観的に証明できますが、天動説の証明は不可能です。原書の資料としての研究やその過程に楽しみを覚える人はともかく、その目的が正解にある場合の原書研究は全く意味がなく徒労に終わります。なぜなら、四千年経った今なお、正解に辿りついていない中国の原書がそれを物語っております。
これは、方程式が存在しない為、100人100通りの解釈を無限に乗じるだけのことになるからです。
したがって、計算結果を求める場合は、原書では何十年研究しても土台無理ですが、真伝は簡単な算数の公式ですから1冊の本で、文書で、また、早ければ1日でマスターできるものです
Q11 奇門遁甲や四柱推命が難解といわれるのは何故?
A 方程式が存在しないからです。
数学や物理には明確な公式があり、それらがどんなに複雑を呈していても、個々に分解すれば、極めて単純な算数の集合体故、計算処理能力、速度の問題をクリアすれば、必ず、正解に辿りつきます。勿論、誰が行っても同一の結果を得ることができるものです。
ところが、これらの「原書」といわれるものに記載してある方法には、そのような公式がありませんから、最終的には、遁甲では、十干や十二支、九宮、九星、八門、八神を、推命では、十干や十二支に加え、その流れやそれぞれの要素の性質などに依拠して判断しなければならないようになっております。
当然、定量化することは不可能ですから、定義も定理も公理も成立する筈もありません。
したがって、ある一つの判断に対して、回答を求めようとした場合、100人がトライすれば100通りの異なった結果がでるという理論的矛盾が生じることから、100人それぞれが自分の解釈が正しいと主張している歴史が三千年も四千年も続いており、これが占法の原書研究の実態です。そんなわけですから、個人がその一生で費やす研究年数などは問題にもなりませんし、学習や研究のステップが全く存在しませんので、新たな事実が後世に受け継がれることはありません。当然、各自がそれぞれ空回りを繰り返すだけで終わりますから、結局、未来永劫、原書を鵜呑みに研究を続ける限り、それで正解を求めるということは地上で雲や星を追いかける少年のように原理的に無理があるのです。
一方、「真伝」というのは、原初の公式で成立しておりますので、簡単にマスターできるようになっているものです。それ故に、入手自体が機密として困難になっていたということがこれまで世に出なかった経緯です。
「秘伝」というものがどういう背景から生まれるのかを考えてみてください。もし、20年も30年も研究しなければ判らないようなものが秘伝になるでしょうか?
部屋の鍵、金庫の鍵、宝のありかを記した地図等が争奪戦になるのは、それを入手すれば容易に活用できるからに他なりません。ドア、あるいは金庫に差しこんでから30年間回し続けて、それでも開く保証の無い鍵など誰も盗んだりはしません。当然、多大なコストをかけてまで入手困難な機密扱いにすることなどあり得ないものです。
私も若い頃、原書特攻隊のような時期があっただけに、原書信奉者の気持ちもある程度理解もできるのですが、それゆえに、命を粗末にするような失敗をしてほしくないというところから、このような判りやすい検証法で啓蒙に努めている次第です。
四柱推命の吉凶の個人差を遁甲に当てはめること自体が、原書に背反しているにも関わず、原書忠実と謳っていたり、四柱推命の天地を明確に分けないで八字全体で論じる五行を決めていたり、また、誰でも知っている気学の九星のみでつくる挨星卦の方法を秘伝とし、「奇門遁甲」の易卦であるかのように装った表を「真伝」と称したりし、また、これらの明白な間違いに気付かないのか、目をつぶっているのか信奉している人がいるなど、非常に遺憾に思うことが多いのが真伝と偽伝をとりまく現状です。
Q12 易経に正解はあるの?
A 基本原則として存在します。
原書としての立場からは、その配列分配において正解ではありませんが、正しい吉凶は、本来の八門遁甲にはあります。易経自体は、もともと、八門遁甲の部分理論である「八門易」の判断構成を司る原理でしたが、「真伝」が失われてから、これだけが命脈を保って独立した事が経緯です。
以後は、さまざまな方法で、この象意の吉凶判断を利用する占法が考案されて「五行易」や「筮竹占」等の雑占が生まれ、これらを主流とした判断を付与したものが易経という形でまとまって今日に至ったものです。
象意に関する部分こそ、大崩れしておりませんが、そこに至る経緯となる「占う方法」については、八門遁甲でみる本来の方法に戻さなければなりません。
Q13 巷間の占法や原書研究者への見解は?
A 個人的な敵意も悪意もありません。
よく誤解されるのですが、私のものさしはあくまで、正しいか否かの一点で論じておりますので、スポーツや武道の試合と同じで、喧嘩ではありません。本当に真剣勝負をするものは将棋であれ、学問であれ、筋が通っているものであり、また、それが自然の姿です。
キックの沢村ときいても、知らない人が多いかも知れませんが、私は、彼の生き様に感動した一人です。某経済雑誌のコラムにキックヘの転向の経緯が書かれてありましたが、それによると空手三四郎として大学選手権の覇者だった彼が、ムエタイ、つまり、タイの国技であるタイ式ボクシングに惨敗した揚げ句、5才から始めた「空手」を捨てたということです。
空手とキックどちらが強いかの論争に正面から堂々と受けて立ち、その後、空手界の名誉のために、敗北の責任をとってキックに転向したというのだから、人として正しいことこの上ありません。
世俗にまみれた人なら、このような試合をすることはないでしょうし、仮に行ったとしても言い訳たらたら「本当は俺が強い」といって、自己や世間を欺瞞するものですが、後にキックの王者として再生した彼は、そういう連中とは一線を画したまさしく本物といえるでしょう。
今日、隆盛を極めているK1なども、そのルーツを辿れば、フルコンタクトの極真空手ですし、その回し蹴りは本来の空手にあったものではなく、まさしくムエタイのキックそのものです。そのタイ式ボクシングを日本に根付かせた最大の功労者が故梶原一騎原作のキックの鬼こと沢村忠その人なのです。
いずれの分野でも、このような姿勢が必要であり、中国占法も学術と定義する限り、例外ではありません。
たとえば、将棋の世界は客観的にその勝敗が判るルールとなっておりますので、曖昧な部分がありません。つまり、具体的に論理的に試合が進んでゆき、最後に引き分けを除いて、勝敗が必ずつくので公明正大でよいということです。しかし、このルールが曖昧だったり、敗れそうになると将棋盤をひっくりかえして「俺の勝ちだ」と吹聴してまわる棋士がいたら困りますが、どの分野にもこういう人達がいることは遺憾に思う次第です。
一手指したら、勝敗がつくまで指しつづけなければならないし、自信が無ければ指さないのが将棋の掟です。
Q14 真伝を名乗る人や、真伝暦っていっぱいあるの?
A 論理的、客観的に証明可能なものは一つです。
とかく、原書や従来のものに依拠している人達の中においては、このような発言をする者がいるかもしれません。
但し、繰り返し、述べてきましたように、本物の「真伝」は主観を排した客観的な方程式と原理式で構成されておりますので、客観的に、かつ論理的手法を用いれば、誰でもその正しさが検証できます。
一方、その他の標榜ものに関しては、これらの証明ができないもので、主観に基づいた原書信奉者の説と大同小異というところです。
また、本場の中国にも同様に云っている人がいるとのことですが、いずれも、私の公開しているものではないでしょうし、方程式等に裏打ちされているものでは無い筈です。
つまり、他にも標榜している人がいることと、私の公開している「真伝」の真偽と、または、その伝承のセオリーとどんな因果関係があるかです。
肝心なことは、真伝の決め手である「作盤の原理や数還元」の記載がどんな原書にもなく、また、これが、奇門遁甲は勿論、気学のもとである洛書と見事に符合するばかりではなく、三千年、四千年の歴史を経ても解決できなかった問題を、私の公開により初めて解くことができたということに論理的、客観的な反証が可能か否かです。
これが決め手なのです。
従って、真伝の是非を問う人達も流石に、この決め手の原理に関しては一切、触れません(触れても歪曲したり、割愛)が、異議を唱えるならば、このハードルを避けて遁甲を論じることは一切できませんので、そのような人がいる場合は、この件について、はっきりとイエス、ノーを回答してもらってください。
その結果で相手の真偽がわかります。
少しでも勉強している人ならイエスですし、ノ一なら、不勉強か虚偽発言、虚偽回答ということになります。
真伝を素直に認めているならともかく、他方で異議を唱えながらこの件で回答しないようなら、遁甲を論ずる資格そのものがありません。
私が遺憾に思うのは、この決め手の真実を知っているが為に、正しいか否かのモノサシではなく、商売の邪魔か否かのモノサシで明確な回答を避けている人達なのです。
もし、真実の探求が動機なら、きっぱりと潔くイエスと認めるのが自然の姿です。
私は、そういう人達を勇者と評価しても、敗者だと思うようなことはありません。
むしろ、明白な事実の前に、いつまでもだらだらと愚にもつかない言い訳を続けている方が、マイナスと思います。
その昔、密教がインド、中国を経て、日本の空海に継承されたように、これらの技術的知識は固定資産ではなく、流動資産ですから、先に説明したような金庫の鍵同様、常に適切な人から人へ伝わるものです。
その証拠に、不空と恵果に血縁はありませんし、また、恵果と空海にも血縁はありません。
それでは、空海が継承したのは、恵果のものでも不空のものでもないのでしょうか?
現在、これを否定する人は、余程の変人で無い限り、存在しないと思います。
唯、空海も当時は、顕教の一方の雄である最澄一派、後の天台密教派から敵視されていたものですが、本物の「密教」が空海のもとにあることを誰よりもよく知っていたのは他ならぬ最澄自身であったことは皮肉なものです。
このように、密教という名のもとに喧伝されていてもそれで、すべてが同じレベルの「密教」だというのは笑止千万であることがお判りと思います。
「密教」ということから云えば、真伝は天台密教ではなく、真言密教にこそ存在するものです。
「真伝」の論議についても同様で、この正しさを私以上に知っているのは、原書信奉者を始めとする偽伝の一派です。何故なら、検証能力は極めて高いものを持っている方達が大半だと思うからであります。
お尋ねの件を整理してみますと、私の公開している「真伝の原理や暦」の唯一性が損なわれているということではなく、単に、各自が拠って立つところの占法を「真伝とか本物」だという人達が他にもいるということに過ぎず、これは、各自の自由ですから、私が口を差し挟むことではありません。
また、このように吹聴することによって一般の人の錯覚を企図したものでしょうが、同一の原理や暦の権利者が内外を問わず、私以外に存在しているわけではありませんから、あまり意味のないことだと思います。
但し、権利侵害者が存在していれば、由々しき事態であり、この場合は、然るべき措置をとらねばならないことは云うまでもありません。
ここら辺の真偽も明確に回答してもらってください。
Q15 真伝も流派の一つなの?
A 違います。
前にも述べましたが、流派というのは、確かなモノサシがないものに発生します。
従って、もし、私の公開している原理が流派だとしたら、その判断基準や骨子等に、確かなモノサシが存在していないということになります。
しかしながら、「真伝」はすべて算式による方程式で構成されておりますので、その基準は常に一定で、その結果においても客観的に検証できるようになっており、また、誰でも計算さえ間違えなければ同一の答を得ることが可能です。
このような数学や物理のような計算で証明する学問や学術にはその手法から計算結果に至るまで、複数の異説や解釈が生じることはありませんので私が公開している「真伝」はその定義から申し上げても流派ではありません。
一方、原書信奉者達が唱える複数の真伝説等は、このような方程式で構成されておらず、主観で判断するという仕組みに最終的になっておりますので、解釈は多岐にわたり、その裾は無限に拡大します。
これが、流派の源なのです。
当然、どれが正しいかなど判るはずもありません。
何故なら、正しい基準自体がないからです。丁度、床が上下に波打つところに整列させた人達の身長を、これまた、変動する場所に立った人から見て、その高低順を調べろといっても、正確な測定などできる筈もありません。
そこで、それぞれの観測者が自分の主観判断を書いたものが、一般の原書なのです。
このような明確な判断基準のない状態では、その難しさは推して知るべしです。
ピラミッド式階段がある原理ならば、頂上に立つことは可能ですが、頂上が見え始めたら、下降する階段のループになっている原書では、いつまでも歩き続けるだけの階段となっておりますので、体脂肪燃焼の健康にはよいかもしれませんが、決して、頂上に登れない仕組みや原理になっているのは困りものです。
だから、原書信奉者の説にトライするときは、初めに階段の見取り図や設計図という「公式」があるか否か、つまり、主観で判断するループ階段の存否の確認を怠らないことです。
Q16 遁甲の原書には坐山盤は無かったって本当?
A 真伝にはあります。
私のスタンスは、兵法であり、そのフォーカスの中にあるものの中でも黄帝や太公望、張良、孔明等が駆使した戦略占術の部分のみを著名な故漢学者から伝授していただいたものです。当然、孔明達が駆使した真伝の奇門遁甲には、間違いなく立向、坐山のニつの盤があり、活用した経緯も史書にあります。
三国志演義にある八門金鎖の陣のくだりがありますが、これは、立向盤の記述ではありません。
また、兵法書等に記載してある八陣の図の竹簡等の要旨も八卦の陣形については、そのベースを坐山の原理に拠っているものです。
もともと、黄帝という五千年も昔に遡及しての兵法と銘打っている戦略占術において、それより、降ったとしても後漢までの間に、既成事実として存在した八門遁甲の二盤の存在を近年の明時代の占い書に記載しているか否かで論じること自体が的外れもよいところなのです。
素人には、判らない部分があると思いますので、少し、補足しておきましょう。
奇門遁甲の原書の代表といえるものは「煙波釣」ですが、その末尾には、「天目為客地耳主」の一文があり、ここに、立向、坐山の記述があります。
どちらを主とし、客とするかは諸説ありますが、「奇門遁甲」には、この二つが必要であり、ここから、後の原書にも天書と地書の区別ができたものです。
一応、この場合は、客を立向、主を坐山とします。
従って、特定の学派が独自に設定したものでもなく、おおもとの原書に記載してあることは勿論、それより遥か以前の兵法書の舞台でも広く認知されていた常識だということがお判りいただけたものと思います。
ついでに申し上げますと、原書とよばれるものの大半は、奇門四十格の説明を中心に説かれており、局数等も立向の時盤のみにとどめているものが多いのですが、だからといって奇門遁甲が立向の時盤のみで構成されているわけではありません。
これらは、前述したように、省略とか当時、秘伝扱いの為にあえて記載しなかった経緯からそうなっているだけです。
その証拠に、立向の年月日盤の作成法も多くの原書には記載してないと思いますが、坐山が存在しないと主張する人達は、これらの方法も一切、否定し、削除し、活用していないのでしょうか?
この論理でゆくと、そうしていなければ、筋が通らず、一貫しません。
漢文の一文字は、和文の二十文字から百文字の意味を内包している事や、通常の日本読みの意味とは異なった漢字を充てているように結果的になっておりますので、このような単純な見落とし等による錯覚や間違いを犯しやすいので注意してください。
当然、まともな研究者が坐山を除外するということはありません。もし、そうするならば、原書のおおもとに背反する原書信奉者という自己矛盾を犯してしまいますし、強行すれば、上記の一貫性を欠く理論的矛盾を抱えて蟻地獄に墜ちるまさしく原書特攻隊が出来上がってしまいます。
だから、命を粗末にしてはいけないと老婆心ながら口を酸っぱくして申し上げているのです。
先に天動説と地動説での検証手法を紹介しましたが、天動説を原書、地動説を真伝としてとらえますと、争点は、天動説人口の多さでも、それに依拠する書物の数や内容の吟味ではなく、唯、「地球が動いているのか、天体が動いているのか」の一点のみなのです。
真伝の決め手の是非にイエスかノーか論理的、客観的に回答すればそれでこと足りるのです。
これを避けていれば、永久に正解には辿りつけません。
真伝には暦や図表等、唯一のものがありますが、群書類従等に記載してあるものの、その判断作成方法が紛失し、判らない状態になっている結果のみのホロスコープがありますが、唯一の真伝暦等を使えば見事に符合し、新たに作成できるようになっております。
仮に、人為的に後世に作ろうとしても規則性を伴ったこれらの原理がすべて一致するようになど不可能に近く、また、平安期の人が、現在のことを予見して、私の暦や原理に合うように作るなどあり得ないことです。
当然、数千年以上も遡る洛書や奇門遁甲の原理が同様に私に擦り寄って発案されることなどある筈がありません。
こういった経緯を踏まえて考察すれば、すんなり伝承の真偽がお判りになると思います。
Q17 海賊版を知って驚きました。処罰しないの?
A 第三者に委託しております。
あなたを含め、多くの方から、同様のご意向を頂戴しており、また、貴重な資料(メールの返信記録等)や証拠物件等の送付も受けております。
これらにつきましては、昨年に企業主催の懇親会に出席した折に著作権、特許侵害、ならびにクレーマー、有害サイト検知対策ソフトの必要性を論じる過程で、議題にのぼり、通信事業では管轄の郵政省のほうでも、動き出しております。
現在は、ネットを通じた電子出版等による著作権利侵害が横行しており、仰せのとおり、急務として下記のとおり、考えており、一切を代理人に一任しております。
仮に、末端のところを押さえても、とかげの尻尾きりになるきらいがありますので、そのルートを遡及解明しておおもとの特定が必要です。
特に、海賊版というように国家を隔てた犯罪の場合、必ず、国内にその手引き者がいる筈であり、現物から追っていっても複数の経路があると思うからです。
そこで、大事なことは、収集した資料や証拠等から、まず、虞犯性の個人やサイト、企業等の監視をし、これらを特定する作業から始めねばなりません。
たとえば、仮にこれらに虞犯要素の高い有害サイトが関与していたとしましょう。
ところが、従来の法では、特定の人物の所在と氏名の開示請求がプロバイダー側の通信の秘密で困難だったのです。
しかしながら、年内には一定の条件を満たせば開示命令を出せる法案が可決される見通しがつきましたので、まず、この可決待ちといったところです。
最長、向こう十年間(海外からの協力を含めて)の監視の中で、Xデーを作ることになると思いますが、早ければ年内になるかも知れません。
そんなわけで、全容の解明の為、非常に時間がかかると思いますが確実に進行しておりますので、今後とも情報の提供よろしくお願いします。
二十一世紀のテーマはフリー(自由)、フェア(公正)、グローバル(国際競争力)であり、これに逆行するものは何であれ、共に一掃してゆきましょう。
Q18 原書の奇門遁甲と四柱推命、主観で判断するのはどこ?
A 判断の方法です。
まず奇門遁甲から説明しましょう。
暦からデータを求めて、そのデータを基に遁甲盤を作る手順となっておりますので、暦が異なれば、出来上がる遁甲盤も違ってくるのですが、これは主観の部分ではありません。
問題は、それぞれの暦で作った盤からどのように吉凶を判断するのか、その方法です。
原書といわれているものには複数の異なったものがありますが、共通している部分は作盤です。
特に、地盤と天盤の干の配置についてはいずれも共通の筈です。この他の八神、八門、九星、九宮については、その名称も含めて、若干、相違するものもあるようですが、方位の吉凶を左右するものではありません。
つまり、先に作った天盤の干と地盤の干の組み合わせでみることにウエイトを置いており、その判断基準に奇門四十格を用いているのが原書の規則だからです。
従って、この吉凶を中心に、その他はあくまで補足だから、この方法を踏襲すれば、結果はともかく、原書といえども主観で判断する部分は無いのですが、実証が伴わないところから、動かせない天地盤の吉凶はさておき、残る八神、九星、九宮の性質等に依拠して判断しようということで数種の試みを各自が行ったのが複数の原書やその信奉者の研究の発端です。
これでは、既にオリジナルとなってしまい原書信奉とはいえません。それでも、それに一定の公式があればよいのですが、無いものですから、第三者が客観的に吉凶を判断することは出来ず、つまるところ、実証例の後付けの説明の道具にしかならないことが、主観で判断するということです。
また、この壁の是正として、四柱推命の個人の吉凶の干と天地盤の干の吉凶を併せるという人もおりますが、これだと更に、原書信奉から逸脱するオリジナルとなるばかりではなく、気学のような個人方位術となってしまい、実証面でも航空機事故等では全く説明がつかなくなってしまいます。
また、原書の原則である天地盤の干の吉凶を捨てて省みないということは原書忠実を謳っているにしては、スタンスが原書信奉か否か判然としません。
とにかく、的中するか否かは二の次としても、事前に方位の吉凶を各原書信奉者達の方法で確定することが可能な仕組みになっているかというと曖昧ですから客観的に同一の答を求めることは不可能です。
これが各自の主観で吉凶を決める仕組みということです。
次に、四柱推命ですが、これも、奇門遁甲の盤に相当する「命式」を作るまでは客観的に進行はしてゆきます。
但し、やはり、判断となると、肝心の干の吉凶を決める方法が公式化されておらず、格を決める際にも各柱の干の強弱は四柱全体の流れやそれぞれの干の意義や特質により一様ではないということになっている為、類型化するようなきまりはありません。
従って、四柱推命の判断の前提となる干の吉凶を、誰が判断しても同じ結果として求めることは、不可能となります。
ゆえに、百人百様の格局が形成され、その結果、干の吉凶つまり、喜神、忌神もスライディングして異なってくるので判断も百通りとなるという次第です。
原書に基づくか、あるいはそれをベースにして研究する場合は、ここのところを整備する必要があります。
その上で、初めて、的中を伴う実証比較の段階に入るわけですが、現状では、命式作成までが客観的手順の限界となっているようです。
複雑なことと、難解なこととはその意味において天地以上の開きがあるものです。
何故なら、前者は単に作業や手順の回数の問題ですから、いかに高い山でも、長い道のりでも一歩ずつ前進すれば目的地に接近しているわけですが、後者は、目的地も定まっておらず、地図もなければ道も無いという状態で、「さあ、私のいきたいところはどこか当てて見なさい。あなたが決めた目的地についたときにそれが正解か否か教えてあげよう」という原書の神様みたいなものです。
仮に、ここだと思ったところに行っても、神様からハズレといわれた時はどうすればよいでしょうか?
そうです、正解か否かどうやって検証できるかを最初に原書の神様に確認しておくことなのです。
真伝と出会う前になりますが、私の知る限り、明確に回答してくれた原書の神様はおりませんでしたし、現在においても会ったという人も知りません。
以上が「主観」の部分です。
暦が違えば、結果は異なり、「真伝暦」に依存しない限り、正解は無理ですが、百歩譲って、その前に、奇門遁甲にしろ四柱推命にしろ、その他にしても、平たくいってこうすればこうなる、ああすればああなるといったそれに則れば、誰でも同一の判断結果が得られる明確な「公式」が原書研究には必要です。
それが無ければ、論理的検証ができませんから、学問学術とは云えず、卑弥呼のようなシャーマン(祈祷師、超能力者、霊能者)というカテゴリーとすべきと思っております。
彼等、彼女達の頭のなかにあることをどうして学習できるでしょうか?
唯、一方的にご託宣を受けて従うということなら筋は通ります。このシャーマンの頭の中での判断が当人の主観判断ということです。
他人の主観は伺うものであっても、学ぶことは不可能だということがおわかりいただけたと思います。
数学等の答は、解のある教科書からの出題である限り、個人差はあっても努力次第で必ず同一の解答にたどりつくものですが、国語の作家の作品で作者の胸中を述べよとか、どう思ったか等の答に正解などある筈がありません。本当のことは作者に尋ねてみないと判らないものですし、仮に尋ねても本当のことを答えるかどうか検証のしようがありません。
百人に百通りの回答をすれば、各自にとってはそれが正解ということになってしまいますし、試験官が百一番目の答えを聞いて出題し、採点をしたとしたら、受験者全員が間違いという混乱を招いてしまいます。
原書研究が最終的に混乱を招き、収拾がつかない状態となっているのは、マスター(原初)の原理公式散逸の状態で作成されている為、その不備を各自の主観で補ってきたことが代を重ねるごとに増えていった結果であり、客観的判断の真伝にスタンスを移せば疑問は氷解します。
Q19 研究年数の長さって偉さの尺度になるの?
A 対象によります。
医学や物理等、世界の研究機関のレベルの科学者や技術者やはたまた学問等、始めに解の無い分野でありながら、新たなニーズに応える為、既に公認された基礎科学を基に、応用科学の実験研究に専念している学者等の場合は、試行錯誤が必要であり、結果を出すには一朝一夕とはいきませんから、一部の天才は別として、大体、研究年数に比例して偉いものですし、また、漢学等のような偉大な分野についても碩学でなければ大業を為すことは不可能ですから、この面でも同様ですが、お尋ねの奇門遁甲や四柱推命等の場合は、次の点から、前提に疑問が生じます。
一つは、一体、これらのどこに研究年数を費やしたのか
一つは、何を基準に研究年数とするのか
以上の二点です。
上記のような未発見や前人未到に挑戦といった比例する分野と違って、数学の公式を覚える、学習するだけのものであるべきものに個人差はあったとしても、研究年数というべきものが存在するだろうかという疑問です。
私個人を例にとってみましょう。
原書等に関しては、理論的矛盾がありましたので、結論を出すまでに数年かかりましたが、解のある「真伝」は約三ヶ月程の集中講義で伝授していただき、マスターしました。
従って、それ以後は、研究はしておりません。但し、この時、二十二歳ですから、現在までマスターしてから何年かというと二十年余ということになります。
多くの方は、唯、これらに出会って経過した年数だけを金科玉条に研究年数としているのではないかと思います。
既に、説明したように、奇門遁甲にしろ、四柱推命にしろ作盤や八字(命式)を各自の拠ってたつところで割り出すのにそれほどの期間を要さない筈ですから、研究が必要とすれば、ここから先の判断の方法でしょうが、公式を持たない状態での研究は実証例の後付け説明は出来ても、空転が続くだけになるので、これを続けていけば死ぬまで研究中となるだけです。丁度、バカになったネジをドライバーで何度もまわしている状態に似ています。
ネジヤマさえ崩れていなければ、どんなに固いネジでも、より強固なドライバーと、より強大な力をもってすれば、ネジはやがて回ります。
このネジヤマに値するものが「公式」であり、ドライバーが教本か師、回す力が各自の努力です。
原書は、主観で判断する為、このネジヤマがつぶれたネジのようなものと考えてください。
客観的とは、ネジヤマを元通りに復元することであり、「真伝暦」とは、錆びついた錆びを熱膨張の原理でふるい落としてしまうものといえるでしょう。
これらを経れば、極めて小さな力でネジは簡単に回ります。元々そのように設計されているものですから当然のことです。
これが真伝です。
解のある判断方法を何十年も研究というのは、方法論の誤りに気付いていないものと思われます。
通常は五年程度の分析で原書の限界を認識し現行での研究は終了するからです。
たとえば、四則演算は、確かに始めは覚えなければなりませんが、この計算方法を一度、マスターすれば、それ以降もこの方法について研究することは応用を除いてはあり得ません。解のある学術や学問と定義づけられているものには、一定期間を超える習熟までの研究年数というものは、事実上、存在しませんから比例はしないものの、ドンキホーテのような見果てぬ夢に費した汗の量はある面では偉いと思いますし、仰せのような原書信奉の世界のドンキホーテとサンチョパンサのような関係についても最大の評価を惜しみませんが、正解と直結しない汗をかくことはお薦めできません。
Q20 メール等では質問できないの?
A できません。
ご承知のとおり、メールでは、匿名性が高く、差出人の確認ができないからです。これでは、責任の所在が曖昧ですから、お手紙やはがき等の郵便に限定してご質問を受け付けております。
私も自らの所在を明らかにし、責任をもって回答しておりますので、相手にも同様であってもらわなくてはなりません。
もう20年以上昔のことですが、ラジオの深夜番組のパーソナリティを笑福亭鶴瓶師匠がつとめていたことがありました。
ある日、リスナーからの苦情のはがきを読んでいたときのことです。
確か「番組がつまらないので、やめろ」とかいった内容だったと思いますが、それに対しての態度が立派だったので印象に残っております。
その経緯
苦情のはがきを丁寧に読んだ後、「おまえは、もう二度とこの番組を聴くな、俺が仲間内と雑談ばかりしている番組でも、それを採用しているということは、プロデューサーなり、ディレクターのコンセプトに、企画に合っているから、継続しているんだろ、それに、人に苦情を言うときは、ちゃんと自分の住所氏名を書いておけ」
以上ですが、私にはその真意がよくわかります。
つまり、素人が番組のことが判らないのは仕方がないし、判る必要も無いのだけれど、リスナーとして、それが本当に正しい意見なら差出人の欄に明記している筈。
要は、リスナー本人も間違った意見と判っていながらよこしているということに立腹したのではないかと思います。
もし、責任の所在を明らかにしていれば、おそらくもっと、違った対応になっていたのではないかと思います。(貴重な意見ありがとうございましたとか)
しかし、前提となる差出人が存在しないのでは、回答も、これまた存在しないものです。
真伝も同じで、異議があれば、堂々と住所氏名を明記したお葉書やお手紙でお願いします。Q&Aによこしてくださった読者の住所氏名については、ご本人の承諾が無い限り、公表することは、ありませんが、もし、回答の保証が必要な場合は、その旨、承諾していただければ、頂戴してから1ヶ月以内に、ここに掲載いたしますのでその約束の履行が客観的に検証できますし、重複したご質問なり、異議も氷解いたしますので、どしどし、お寄せ下さい。
米国で発生したテロについて、大統領は「臆病者」と断罪しましたが、同感です。犯人の特定に至ってないものの、確かなことは、テロリストとは、正面から対峙すれば、百パーセント勝ち目が無いことを本人、自らが認めた結果であるからです。
従って、本当に正しい異議なら、Q&Aによこして下さった読者のように、郵便でお寄せください。
また、異議を唱える方をご存知の場合は、手紙やはがきで質問をするよう、背中を押してあげてください。
適切で論理的な回答を差し上げます。
Q21 陰暦換算と陽暦換算どちらが正しいの?
A どちらも正解です。
徳間書店刊の「諸葛孔明の占法」にそこら辺のところは詳述してありますので、参照してください。
これらは、方法論の違いであり、たとえて云えば、インド、中国伝来の「宿曜経」のようなものと考えてください。
大蔵経では28宿が天文学的に機械的に配置されているのに対して、空海が持ち込んだ27宿では、牛宿が割愛されて多分に「占法」としての要素で構築されております。
当然、毎日の宿も異なりますし、天球上に配置した方位(分野といって戦国時代にはその方位にある宿を始めとする各要素によって戦況を占った)の宿も七曜も星座宮も全く別のものになります。
ゆえに、毎年、発行される「暦」には発行元の主旨によってそのいずれかを採用しておりますが、それでは、このどちらかが本物で、残ったものは偽物でしょうか?
この件について公式に異議を唱える方は、過去、おられませんし、今後も存在しないでしょう。
いずれも、中国伝来の経典(古典)として、当時、限られた人がこれを受け、紹介に努めた結果、この二つの宿が今に残っているわけであり、もし、紹介者の私見や裁量で一方を削除したり、その是非を断じたりすることは許されません。
「真伝」も同様で、陽暦換算を始めに紹介し、後で、一般書をして「諸葛孔明の占法」に陰暦換算を紹介した次第です。
従って、上記のとおり、その是非は「紹介者」である私が断ずることはできません。
つまり、両者共、伝授していただいた正しい方法であり、「学者、研究家、紹介者」というものは、通訳、翻訳者のようなものですから、先方の意見や意向を原則どおり、正しく、そのまま、伝えることが任務であり、私見や裁量を挟む場合は、必ず、但し書きを付記し、原則のノウハウは残しておくことが正しい「紹介者」の姿だからです。
そんなわけで、専門書に「陰暦」を採用しているのも、私の裁量、私見によるものであること、ご了承ください。
Q22 ノウハウは本によって変わるの?
A 一貫しております。
陽暦換算と陰暦換算による違いについては、既に説明した通りですので、省略して、その他につきましては、大筋で一貫しております。
伝授された内容が複数(二、三通り)に亘る場合等は、前述しました様に、正しく紹介している関係から、紹介としての原則どおり掲載しますので、それが原因です。
それと、書籍や文書の場合、宿命なのですが、絶えず、編集レイアウト等に不備があることと、ミスプリント等もある程度、避けられませんので、これらを補正したりすることでの改定や改訂による変更は当然あります。
つまり、仏教でいえば、多くの経典を持ちかえった空海や玄奘が翻訳なり、整理がついた順に紹介していると考えてくだされば納得いただけると思います。
勿論、私見や裁量は後回しになりますので、記載してあるとおりに転載することになるので、その結果です。
これらはひとつのセットですから、その単品を中心にみてゆくと勘違いをおこしますので、留意してください。
尚、戦略占術の基礎については、上記のとおりですが、これらをベースに考慮した競馬等への応用に関しては、ベースの理論を除いて、私個人の私見や裁量にもとづいておりますので、正解等はなく、現時点でのベストの応用法ですから、常に、改良の余地を残しております。
Q23 真伝は無料で頒布すべきでは?
A 無理です。
順次、整理ができた状態で、紹介しているということもさることながら、私共は市場では入手不可能な「真伝」をその理論的根拠を明示して、コンセンサスを得た人にのみ、頒布している「出版ビジネス」です。
学者は知識を、実業家は商品開発を、農林水産業は産物を、コンサルタントは手法を、サラリーマンは労働力を、神社仏閣は儀式儀礼を、その他、どんなお仕事も何かを切り売りして市場が成立しております。
以前にも、同様のご意見を仰る方がおられましたので、次のように、回答さし上げましたら、納得していただきましたので、参照してください。
もし、ここに、有意義な薬があったとします。
しかし、この開発には製薬会社として多大なコストがかかっており、単価を下げることができないとしましょう。
そこに、患者がきて、薬は人命を救うためにあるもの、金は1円も出せないが、無料でよこすべきだといったらどうでしょう?
確かに、患者の立場に立てば、一見、世界保健機関の台詞のようで聞こえがいいかも知れませんが、これには大きな矛盾があるのです。
仮に、患者の意向を受けて、無料で頒布したとしたら、会社の投下資本の回収はどのようにするのでしょうか?
また、利益も出ませんから、製薬会社の社員一同には、有意義な利用だからということで、無賃労働を強制しなければなりませんし、取引先等にも無償で検査機器等を納品してもらわねばなりませんが、こんなことが、成立するのでしょうか?
極めて当たり前のことなのですが、患者を救う前に、製薬会社の社員が全滅するのが関の山です。
これは、極論ですが、このような論理を申し出る人に限って、自分は市場原理、経済原則に則った主張や行動をしているものです。
その証拠に、サラリーマンであれば、勤務先の会社は何等かの製品なり仕事をして、社会の役に立っているものと思いますが、では、あなたはそれらが有意義だからといって、会社が無償で頒布し、その結果として、サラリー無しの無賃労働を享受できますか?
生涯、無賃労働をするとしても、通勤やそのほかの経費はアルバイト等、自前で調達しなければなりませんが、これらの原則でゆくと、いかなる業種も有意義な側面があるので、ここからも賃金を受け取るわけにはゆかないとしたら、一体、どうやって会社に通って仕事をすることができるのでしょうか?
仰せのような理論でゆくと、こうしないと一貫しないということで、無理だということがおわかりいただけると思います。
Q24 成功しているとは思えないのですが、どうしてでしょうか?
A 仰せの通りです。
早速のご質問ありがとうございます。
諸葛孔明の真伝を紹介することにのみ専念して二十年になりますが、確かに大金持ちになっているわけではありませんから、否定するつもりはございません。
唯、糊口をしのいでいるとは云え、私共の任務である「紹介」において、この理論が責任の所在が明確なところから、否定されたことは、現在まで、一度もなく、むしろ、論理的検証の結果、他の追随を許さぬということで正解であるということは、実証済みです。
ご承知とは存じますが、市販の遁甲のソフト等は真伝の原理を無断使用しておりますし、台湾などでは、海賊版が出まわっているばかりでなく、世界においてはデファクトスタンダードとして認知されております。
国内等で原書に基づいて、占い商売をしている人たちも、無断ではあるものの、直接、間接を問わず、私の「真伝」によって活動されているわけ(時期が到来すれば露見します)ですがライセンス契約を申し出てきてはおりません。
もしかすると、賠償請求を起こして、これら一切の権利金の徴収をすれば、成功するのかもしれませんね。
それは、さておき、お尋ねの「成功」の定義というものは何でしょうか?
また、どなたがその成功とやらをされているのでしょうか?
残念ながら、私は、そのような方を一人も存じ上げません。
仮に、原書信奉している易者、占い師さんだとして考えてみますと、モノサシは「お金儲け」の巧拙ですよね。
すると、彼らの収入源は、書籍の販売、講義講習、運命鑑定、開運グッズの企画販売、さらに、通信教育とありますから、あらゆる方面から入るのを計っている結果にすぎません。
これを除けば、引き算では何も残りませんから、ここを基点に検証してみましょう。
私のところには、あなたと同じように、占い業者の変遷後に、すりばちの底として、物理法則どおり、人が集まってきます。
彼らが異口同音に仰るのは、なんだかんだと口実をつけられ、30分で10万円取られた、一件、五万円の通信鑑定を十回以上、実行したが、何も得られなかった。講座や講習にも参加したが、売っている書籍と重複した説明であり、原書の新解釈といっても古来の他派と同じだった等です。
こんなことなら、真伝の本買っておいた方が安かった。
方程式のノウハウが形として残っているだけ、後で、自分で活用できるだけましだった。
でも、上記のようなところで何百万も費消したので、金が無い、安くしてくれ。
以上ですが、こんな話を聞くまでもなく、私は真伝を伝授していただいた約二十年前の時点で、「紹介者」としての約束を守るべく、誓いを立てた身ですから、易者、占い師さんの定義となる鑑定は一切、やりませんし、今後も同様です。
また、通信教育等も重複する側面があるということで、書籍オンリーとしております。
何故なら、私は単なる「紹介者」であり、それ以上でも以下でもないからです。
一歩引いて考えれば分かると思いますが、原書信奉の易者さんが本を書いたとしたら、どうして、その他の運命鑑定や通信教育、講義講習、果ては開運グッズなどというものが必要でしょうか?
真伝、偽伝を問わず、本に書けば、その内容に関する質疑応答だけでこと足りるはずです。
大半の人はこれを読み、実行すれば、鑑定不要です。
もし、本を読んだだけでは分からないのなら、これは内容に偽りありとして問題でしょう。
それなら、本は止めて、鑑定オンリーにすべきですし、グッズに至っては論外です。
誤解のないように申し上げておきますが、これらは、通常、カウンセリングとしての一環として、鑑定を業としている人たちを対象としているのではありません。
彼等、カウンセラーにとっての占いはあくまで「方便」ですから神社のおみくじ同様、真偽を云々するようなものではないからです。
従って、易者、占い師ならこのスタンスでゆけばよいのに、一方で原書研究家の側面をちらつかせたり、それでいて何でもありの占いデパートを営業しているなど、どこが真摯なのか、何に対して真摯なのか、支離滅裂で理解できない人達がいるのも事実です。
易者、占い師産業はバブル崩壊後も、すでに述べたような手法で、年商億単位を稼ぎ出す団体や個人もおり、私も、そのことについては、何等の異義もありませんが、そのはじまりからして、私とは無関係な話であり、このようなお金持ちを「成功」と仰るのであれば、冒頭に申し上げた理由から、とても、私には真似の出来ない世界です。
既に説明したとおり、八門遁甲は運命金利の運用ツールであり、その元金次第ですから、元金の多い人への補佐をして初めて、有効活用できます。
真伝はあくまでも、元金と金利の積算運用を説いているだけですから、「成功」を求めるには、学問ではなく、金庫ごと根こそぎ収奪、簒奪する「商才」をお持ちの個人なり、団体に弟子入りし、そこで学習するのではなく、その手法を真似た方がよいと思います。
お尋ねの件は、私にはそのような商才がないというのが原因です。
唯、商才がなくても「紹介者」としての任務は遂行できますし、及ばずながら、拙い筆により、紹介した結果、「真伝」の認知を得たということで、私個人の「成功」は既に達成しているものと思っております。
真伝のルーツである太公望は真伝を得ていたにも拘わらず、四十年以上も、永く貧乏暮らしをしておりましたし、黄石公は流浪のため、一生涯、名声を得ることはありませんでしたが、張子房に伝授したことにより、後世に名をとどめました。
また、諸葛孔明に至っては、僅かばかりの土地で晴耕雨読という生活をしていたに過ぎません。
いずれも、大金持ちとは無縁でしたが、少なくとも、彼等、先賢の諸氏達よりは、楽な暮らしをしておりますので、その余暇を持って、書籍制作に専念している次第です。
聖書にイエスを試す悪魔の記述があるのを思いだします。
魂を売れば、世俗一切を与えようとの申し出に毅然として「サタンよ去れ」といいました。
私も、同感で、約束や誓いを反故にして得られる栄達や享楽など欲しくはありません 。
以上、回答申し上げます。
Q25 競馬の的中率は?また、予想はしないの?
A いたしません。
あくまで、予想の一助としてのツール(道具)の位置付けで、「八門遁甲」を、その真伝の理論をベースに、応用するとしたらという仮定に立って、読者のご要望と、私自身の道標から、何度かの試みを経て、常に、ベストの応用ができるよう、研鑽しております。
その結果、最も、効果的なものが、陰暦換算による「八門易」を用いたものであり、一つは「諸葛孔明の占法」に、その他は「専門書」に、その方法を記載しております。
平たくいうと、騎手の運を、発走時の遁甲盤から読みとり、これを加味することによって成り立つ方法ですから、ピンポイントで一着と二着の騎手がセレクトできる原理とはなっておりませんので、俗に言う「的中率」の定義はありません。
更に、騎手の生時不明の為、判断に不可欠な死宮が求められないことや、その前提が狂う(馬のゲート入りが難航し、発走時がずれたり、直前の騎手の乗り代わり)こともあります。
もとより、「予想」そのものについては、再三、申し上げておりますとおり、易者、占い師の定義となりますので致しません。
従って、これらを踏まえた上で、おやりになれば、役立つようになっております。
参考までに、読者から「的中報告」のあったG1レース「スプリンターステークス」の蛯名騎手の易卦を、「諸葛孔明の占法」に則って、説明しましょう。
この日の旧暦は、八月十四日ですから、申刻の地盤と八門は次の通りとなります。

一方、蛯名騎手の命宮は、坤(2)ですから、この位置にある八門は、驚門で、上卦は「水」となるので、基本卦は「水沢」となります。
発走時が午後3時35分の中山ですから、経度差がプラス約二十分、均時差がプラス約十分ゆえ、正しい発走時は、三十分プラスした午後4時5分となり、変ずるのは四番目の爻だから、水沢の四番目をみると「沢沢」となっているので、この卦が蛯名騎手のこの時刻の「運」です。
沢沢は喜びですから吉です。
従って、追い風が吹いていたと判断する仕組みになっております。
このように、既存の書籍に掲載してある「ノウハウ」ですから、それを辿れば、誰でも客観的に検証が可能となっております。
Q26 局数や九宮の違いも換算の違いなの?
A その通りです。
徳間書店刊の「諸葛流奇門遁甲」、「諸葛流四柱推命」と「諸葛孔明の占法」とでは、既に申し上げました通り、換算方法が陰暦と陽暦という具合に異なっておりますので、そのノウハウは勿論、付録の図表等にも差異がありますが、これは、これで正解ですので、用いる換算のノウハウに従ってご活用願います。
特に、奇門遁甲に限っていえば、陽暦換算の場合は、「八門易」を中心に人の和、天の時という順に重視していくのに対し、陰暦換算の場合は、「天の時」を中心に地の利、人の和という順に重視するようになっております。
但し、いずれの換算でも、それぞれ天地人が揃って吉方を形成するということは云うまでもありません。
ゆえに、諸葛孔明の占法には、ここら辺のところを、省略して、単に、陽暦は易卦、陰暦は天の時と記載しているのは、こういった経緯を省略していることも説明しておきます。
したがって、陰陽どちらの換算も、天の時だけでよいとか、地の利だけでよいとかいうことではありません。
あくまで、どちらをお使いになるか、陰陽、どちらの天地人の原理を用いるかです。
Q27 徳間のような一般書で占星術などを公開できないの?
A 要請があれば致します。
資本関係から、原価が決定するというのは、説明しておりますが、仰せの安価でというのは、資本のある出版社が量販体制をとることによって、初めて、成立する仕組みですからこの点をご理解の上、読者から各出版元へ要望を出してみることも一考かと思います。
この声の数次第では、実現も可能と思います。
Q28 一子相伝なのに公開しているのは何故?
A 秘伝の部分は非公開です。
テレビ放送と考えてみてください。
私共は、無料ソースの原書等による偽伝放送局ではなく、真伝放送局ですから、独自の編成を経た内容(情報)を多チャンネルで放送しているようなものです。
内訳は、無料もしくはそれに近い安価で提供している(一般書)と有料契約でのみ視聴できる(専門書)に分かれておりますが、それぞれが独立した番組ですから、視聴者が契約した範囲内では不備はありません。
但し、これとは別に非公開のチャンネルがあり、これは提供しておりません。
勿論、これは全く独立した別の番組ですから、何等、支障をおこすものではありません。
つまり、四柱推命と六壬神課のうち、そのどちらかを非公開にしても、購入者に不備が無いのと同じことです。
この部分が「秘伝」であり、公開しておりません。
Q29 陰暦でみると、黄帝紀元は癸亥年では?
A 甲子年です。
太陰暦の一月は寅月を指しておりますが、これは便宜上の約束ごとから成り立っており本当の年始は、この一月ではなく、大雪にあたる十一月一日です。
従って、陰暦のBC2697年の大雪(甲子月)が真伝暦の紀元、基点となっております。
原理面から申し上げると、天球上の時計の役割をすることで知られている北斗七星の柄の部分が旧暦の十一月の子の刻に、寅の方位を指すことに由来しております。
ゆえに、基点は寅ではなく、子であり、大雪(11/1)が年始です。
原書等では、寅を年始とするものが多いようですが、これでは、六十干支暦を単位とする紀元に矛盾が生じてきます。
つまり、基点は甲子年の甲子月とならなければいけないところが、丙寅月から始まってしまうので、子月と丑月がずれ込んだまま、丁度、ボタンのかけちがいで進行させてゆくようなものです。
冬至や春分を年始としても同様で、「六十干支暦」の原則から逸脱し、計算の前提が成立しないことには変わりありません。
「真伝暦」に拠らない限り、古典に記載されている黄帝紀元の伝説(甲子年、甲子月、甲子日、甲子刻で始まる。)と一致しないことがお判りいただけたと思います。
巷間の原書信奉者達は、この黄帝の記載だけは、採択するものの、どういうわけか、使用するのは、寅月年始を踏襲した「暦」であり、その、理論的矛盾に口を閉ざしたままなのは遺憾に思う次第です。
奇門遁甲、四柱推命で自説を主張されている方も、この点には、触れていないのではないかと思います。
論理の前提の前提といってもよい大切な土台ですから、ここがクリアーできない限り、一切は間違いということになってしまいます。
ここら辺も真伝の決め手です。
検証してみてください。
Q30 秘伝の部分は?
A 暦等の作り方です。
未公開のものは少なからずありますが、それらは、新たな単元としての部品のような役割を為すものではなく、既に書物で著した内容で完結しておりますので、活用に際しての不備や支障は一切、ありません。
アメリカでは、種苗ビジネスとして、ハイブリッド方式が採られており、簡単に説明すると、「一代限り」の果実なり、植物、ひいては食物全般を提供するというシステムです。
つまり、売り物がりんごだとしたら、りんごは販売するけれども、種は販売しないということです。
従って、食べた後、そのりんごの種をまいても同質のものは育ちません。このようにバイオコントロールしている仕組みがハイブリッドです。
「真伝」の伝承も同様で、「暦」そのものの結果こそ、半永久的に使用できる正しいものを、書物や文書で提供するけれども、この作成法については、一人の例外を除いて、他には、お教えできないのです。
ゆえに、これらに該当する事項については、当初から口外しておりませんし、また、販売対象にさえ、しておりません。
Q31 秘伝の記載が無くても弊害はないの?
A ありません。
先に申し上げた通り、一子相伝として公開できないものは、それぞれの「学術」のノウハウでも判断の方法でもなく、それらの大前提となる「暦」の作り方にあるわけですから、一般書、専門書を問わず、それらに、すべて記載しておりますので、何等、問題はありません。
学生時代に、クラシックギターをやっている友人から非常にレアものの逸品を当時、百万円という廉価で譲ってもらったと聞き、さぞかしと思い、拝見しましたが、私の想像に反して、あまり高価なものとは思えず、弾いてみても、やはりイマイチという感じでしたが、何と、この友人が弾くと、これが同じ楽器だろうかと思えるほど、名器を彷彿させるすばらしい音色を奏でたことに驚嘆、驚愕したことがありました。
要は、私の腕が悪かっただけであり、大いに恥じ入ったものです。
これは確かロドリゲスだったと記憶しておりますが、バイオリンなんかでも、ストラディバリウスを門外の素人が弾いても、同様の感しか抱かないものではないでしょうか?
「猫に小判」というか、素人の場合は、むしろ、ヤマハあたりの十万円クラスのバイオリンの方が、外観からみても高級に感じるものと思いますし、それが普通でしょう。
それよりも、ほんの一瞬(直後に撤回)であったものの、その名器と、その製造者のクラフトマンシップに対して間違った評価をしたことは、今でも本当に反省しております。
大事なことは、この例でみるように、名器は、奏者の力量を最大限に表現してくれるものの、その技量を高めたり、保証してくれるものではないということです。
「真伝」も同様で、たとえば、陸上の金メダリストであるカールルイスにとっての1秒は、重大な意味がありますが、予選タイムにも及ばない素人にとっての1秒は、何の変哲もない、たったの1秒に過ぎません。
この差1秒を埋めるものが、「運」という追い風、向かい風を左右する八門遁甲の白眉ともいえるノウハウであり、「真伝」に拠らなければ不可能ということなのです。
数学や物理の定理、公理、公式等は「法則」として正しいものですが、この応用が間違っていれば、電灯もロケットも開発できません。
その証拠に応用が間違っていたからといって、その基礎科学の「法則」を否定する科学者や研究者はいない筈です。
同様に野球のバットが悪いから、ヒットが出ない、ホームランの量産ができないという選手が存在しないように、優れた製造者は、正しいフォームで、正しい角度で打てば、最大限に飛距離がでるモノを開発しているわけであって、その極みが名器であり、逸品なのです。
もし、バットの良否でのみ結果がでるのならば、スタープレーヤー使用のものを使えば、全員同じ数字が残せる筈ですが、そうはなりません。
では、「バット」に欠陥があるのかというと、この論理も成立しません。
何故なら、スタープレーヤーが出した数字とのパラドックスが発生するからです。
勿論、強度や材質等、仕様上に問題があったりする場合は、論外であり、明らかに欠陥品ですから、これらは、PL法で謳われているように、製造者が責任を負わなければならないということは云うまでもありません。
「真伝」の一般書や専門書は、この楽器やバットのようなものです。
もし、上記のような勘違い、思い違いをされているのでしたら、これらの仕様(スペック)上での欠如事項や欠陥等はありませんので、ご安心ください。
各自の技量を高めることに専念しない限り、永久に正解には辿りつけないと思います。
そうすれば、今まで、みえてこなかったものが、みえてくるものです。
また、そのようなコンセプトで製作しているのが、「専門書」です。
Q32 遁甲の応期の原理は?
A 三元です。
時の盤を使用した場合は、六十刻(5日)を上元として、下元までの三倍の15日が陽遁となるので、陰陽合わせた30日が効果の期限となります。
日の盤を使用した場合は、六十日を上元として、下元までの三倍の180日が陽遁となるので、陰陽合わせた360日(1年)が効果の期限となります。
月の盤を使用した場合は、六十ヶ月(5年)を上元として、下元までの三倍の15年が陽遁となるので、陰陽合わせた30年が効果の期限となります。
年の盤を使用した場合は、六十年を上元として、下元までの三倍の180年が陽遁となるので、陰陽合わせた360年が効果の期限となります。
いずれも、立向、坐山共通であり、期限までの節目はすべて、三の倍数の刻になり、日になり、月になり、年に発現する仕組みとなっております。
時刻の場合は、移動後、三日目から始まり、九日目あたりから顕著になり、十五日以降から衰退してゆきます。
Q33 北条兵法塾の会費はいくら?2000/11/02
A 無料です。
本来の兵法に欠如していた「戦略占術」の隙間を埋めることを主旨とした、研究会の名称であり、会員対象は「専門書」購入の全ての顧客(ユーザー)です。
これらは、主に、テクニカルサポート(質疑応答)をする上での管理のためのものですから、一般の会のような入会金とか会費というものはありません。
パソコンソフト等を購入すると、ユーザー登録はがきというものが入っていると思いますが、あれと同じシステムと考えてくだされば結構です。
大半のソフト会社は、大手や他社では得がたい、一つの特許技術を基に、少数精鋭でシェアを伸ばしているベンチャー企業なのですが、それ故に、コスト管理、著作権管理には、シビアにならざるを得ないものです。
私も、ユーザーとして経験がありますが、どの会社も、まず、正規ユーザーか否かの確認をしてから初めてサポートに入るものです。
こうしないと、コピーや、窃盗、あるいは、正規の販路以外の製品を使用のユーザーのサポートをすることになってしまい、正規ユーザーの権利を侵害すると同時に、会社が損害を被るからです。
ソフトの中には、たまに、不具合が生じることがメーカーの責任なり、ユーザーの責任なりで、発生することがありますが、こんな時、正規のユーザーには、適切な処置を行いますが、不正入手のユーザーには、購入の前提がありませんから、当然、保証はありません。
「必ず登録をしてください。でなければ、正規の購入者であってもサポートが受けられません」と書いてあるのは、こういった理由からで、メーカーにとって、販売店の不正と、ユーザーの不正を、この登録制度によって、未然に防ぐことができるというわけです。
北条兵法塾においても同様で、「専門書」は、会員専用図書ですから、正規ユーザーのみに、サポート体制を整えております。
その為には、顧客データベースの履歴と照合しながら、回答しなければなりません。
不正事項のある人の場合は、万引きした「商品」のクレームを持ち込むようなものだから、郵便での質疑はできないでしょうが、正規のユーザーの場合は何等の支障もありませんので、差出人が確認できる郵便でお願いしております。
Q34 陰暦換算が突然、出てきたのは何故?2000/11/20
A 当初からありました。
一般書では、陽暦換算のノウハウを紹介していた為、専門書を購入されていない方にとっては「諸葛孔明の占法」から、急に登場したように思われるのも無理はありません。
しかしながら、この陰暦換算は、空に太陽と月があり、この相対世界に陰陽という二つの因子があるように、対比した形で、「真伝」のノウハウとしてあったものです。
徳間の出版当初から、一般書と専門書という棲み分けの中で、後者に、それを採択しておりましたが、陽暦換算につきましては、広く認識されたことや、読者の強いご要望もあったので、これを受ける形で、新書版にも一冊、紹介した次第です。
「真伝」は、独自のノウハウで形成された「暦」によって成り立っておりますが、陰陽、どちらの換算も、一年を360日とした同一の暦フィルター枠を用いるようになっております。その中に太陽暦の日付や干支、九宮等を挿入するのが、陽暦換算、太陰暦の日付や干支、九宮等を挿入するのが陰暦換算です。
いずれの場合も、真伝暦の暦フィルター枠を用いるようになっていることに鑑みてくだされば、これらの同時性、同一源がお判りいただけると思います。
このフィルターを始め、そのノウハウについても、真伝ならではのものであり、世界に二つとありません。
この点も検証してみてください。
Q35 奇門遁甲って当たるの?2001/01/31
A 定義次第です。
たとえば、航空機事故のような、客観的データに基づく、事故との因果関係に照らせば、真伝は、百パーセント当たりますし、一方、個人が旅や移転をした場合などのように、各自の実情等が関係する事象の場合などは、実践者の主観等による判断になってしまいますので、その成否を客観的に評価することは不可能と思います。
従って、これらの事例等においては、公正をはかる為、他の遁甲家の事例等を引用させていただいて、客観的に検証しており、これらにおいては、読者諸氏からピタリと符合、的中しているとのご報告を頂戴しております。
この例に限らず、私どもの検証データからもこのような的中例が常態ですが、鑑定を業としておりませんし、拙著「奇門遁甲」に掲載しているような実例も、あくまで、企業の製品の性能を表している「当社比」という内部測定データの主観的な域を抜けませんので、これら、方位事象については、私見はあるものの、当たる当たらないの定義はあえてしておりません。
たとえば、ある人が、真伝の吉方に旅をしたとしましょう。
そこで宝くじを買ったものの当たらなかったとしたら、凶方かというとそうではなく、宝くじが当たった人が旅先で買っていた場合、その出発時と方位は必ず吉方であるというのが「真伝」の原理です。
先に元金のお話をしましたが、宝くじが当たらなかった人は、運命の元金が、この時点では最高の運用をしてもくじの購入代金に届かなかった為、外れただけであり、吉方は吉方ですから、それなりに効果もあるのですが、あまりにも元金が少ないと、それさえ感じられないものであり、俗に当たらないという人はこの点を勘違いしているようです。
従って、航空機事故等は、調べてみると、必ず凶方になっておりますし、更に、これらの事例に照らして巷間の方位術と比較検討しても、その的中率で真伝に追随するものが存在しないことも証左の一つです。
仰せの当たる当たらないというのは、主観による判断であって、本当の検証とはこのような客観的データと、客観的結果に基づいて行うものです。
従って、この定義で申し上げると、真伝は「当たる」ということになります。
Q36 フリーソフトなら、無断使用してもよいのでは?2001/09/26
A 駄目です。
著作権侵害(俗に盗用、盗作)というものは、権利者に無断で、その創作物の一部、または、全てを使用して、第三者、ならびに不特定多数に公表、頒布してはならないというのが「原則」ですから、商用利用か否かは問いません。
つまり、利益の有無とは無関係に、著作者の権利を保護するものです。
著作権と一口に言いますが、その核には、「著作者人格権」があり、この要旨に氏名表示の義務と同一性の保持があります。
前者は、権利者の明示を義務づけているものであり、後者は、内容の変更を一切禁止するものとなっております。
真伝のアルゴ原理を使用しないと製作コストが膨大になるは、理由になりませんので、原書のソフトを製作するのであれば、ご面倒でも、データベースに原書の万年盤と暦を入力して、そこから抽出する仕組みのものをおつくりになるべきです。
抵触した場合は、それによる不当利得を一切、吐き出さなくてはならないばかりか、賠償額も膨大となり、無断使用者にとっては、まさに、百害あって一利無しの「後悔、先に立たず」となるだけですから、どのような形態であれ、真伝を使用する場合は、事前に私の許可を得てください。
そもそも、私が公開する以前は、遁甲ソフトなど、ほとんど存在しなかったものです。原書に基づいた奇門遁甲なり、四柱推命等のソフトをお作りになる場合は、アルゴも含めて、一切のノウハウはこれらの原書の記載のみに依拠してください。
尚、原書(古典)には著作権等はありませんので、この範疇である限り、どなたの許可も一切不要です。
Q37 九宮って各方位の名称であり、遁甲には存在しなかったって本当?2001/10/04
A 甚だしい誤訳です。
奇門遁甲の構成要素には、干、門、宮、星、神があり、この件について、異論を挟む余地はありません。
気学は、この九宮のみを採択して、近年に作り上げられた園田氏のオリジナル占術であり、各方位には、それぞれ、離宮や坤宮等に代表される位置の名称が中宮を含めて、九つほどありますが、これをもって気学で云々する紫白と呼ばれる「九宮」が、本来、無かったというのは、間違いであり、本末転倒です。
奇門遁甲では、煙波などの原書においても、九星の名称は兼用されており、一つは、各宮の位置を指す場合に、一つは、天蓬などの九つの星を指す場合となっておりますし、九宮においても同様です。
もともと、原書は大陸の大陸による大陸のための文字で記述しているので、現代の日本語では解釈できないようなところも多々あるものですが、実のところは、正しく訳せば、極めてシンプルで整合性のある、当たり前の文章となっているものです。
たとえば、戊と戊を著す場合、甲子と甲子という具合に、直接、六儀を記載しないで、その旬首をもってくるなど、間接的表記を致しますので、これを、日本読みの字義通り、干支の組み合わせと思ってしまうと、とんでもない解釈をしてしまったりするものであり、ここら辺の約束ごとが判らないでいると、絶えず、原書で新たな発見(坐山は存在しなかった等)を繰り返してしまうという笑えない勘違いに陥りますので注意してください。
俗に魔方陣と呼ばれる縦横斜めの総和が十五となる記載は、気学の専売特許ではなく煙波の原書に記載されているもので、九宮、九星と局の定位の配置を説いているものですが、仰せの通りでゆきますと、宋代の書といわれる煙波よりも園田氏の方が早く生まれていたこととなってしまいます。
これでは、論点のすりかえとなってしまいます。
私が真伝の証左としているのは、上記のような九宮の呼称ではなく、気学のベースであり、奇門遁甲の要素の一つである「九宮」のもととなった洛書の配置が奇門遁甲の作盤とリンクしていることを証明しているのは私が紹介している「真伝」の原理以外に無く、かつ、これを公開したのは私が最初であり、私以外にこの原理を保有できるものは存在しないということで、広く、世に問うた結果、一点の異議もありませんでしたし、それは、今後も永久にあり得ないということです。
だから「真伝」なのです。
従って、もし、九宮が、単なる方位の位置を示す宮の名称のみだとしたら、五黄中宮の盤のみとなってしまい、他の八つの番の配置は存在しないことになってしまいます。
仮に、百歩譲って、遁甲には、一白から九紫の略称である紫白の九宮は存在しないとしたら、日盤や年盤の局数はどうするのでしょうか?
いずれも、存在しない「九宮の中宮の数」を冬至、夏至を基点に陰陽二遁に分けて順繰り、逆繰りで割り振ったものを局数とするわけであり、原書等にもそう記載してある筈ですが、単なる方位の宮の名称なら、一年360日、五黄中宮ということで、陰陽局共、すべて五局となってしまいます。これでは数がありませんので、局数が採れず、作盤できません。
時盤の局数をもって充当すれば、これまた原書に背反しますので、論理は完全に破綻してしまいます。
いずれも、冒頭に申し上げた通り、正しく検証すれば犯さない単純なミスに過ぎませんが、このような感覚というものは、現代生活の中でも、至るところに遍在しているものであり、ソルトレークオリンピックの二つの不祥事もその好例といえるものであり、気をつけたいものです。
一つは、フィギィア、一つはショートトラックの不正判定です。
前者は、明らかにおかしいとは云え、審判の印象という主観にウェイトをおいている関係上、断定はできませんが、後者は茶番もいいところで興醒めです。
ビデオ判定を採択しないシステムの壁は判るものの、では、この制度が却下の理由かというとそうではなく、むしろ、ビデオを見てもなお、妨害の可否には触れず、事実上、この期におよんでもタッチありと判定していることに問題があるのです。
ノータッチは確認したが、制度上、判定は覆らないと回答を寄越すのが、筋であり、加えて云えば、制度を変更し、訂正するのが正しい姿勢です。
真伝も同じで、ビデオ判定よろしく、暦の基点、作盤の原理、坐山の存否、公式の可否、航空機事故等にみる偽伝(原書)比較などは、明白にその黒白を判定できる客観的データゆえ、真実の探求が目的であれば、またとない好機なのですが、原書信奉者達がこれら検証方法を採ることは勿論、具体的に回答すること等、決してありません。
ビデオ判定と同じ理由からに他なりませんが、これらに鑑みれば、真伝の正しさがお判りになると思います。
Q38 劉家三元奇門遁甲ってあるの?
A ありません。
この件につきまして、スワミ・デヴァ・サカ氏より、
「盗用をしたスワミ・デヴァ・サカ、ならびに同氏主宰の九天玄学会も現行のものとは無関係の別人の仕業。今後北条氏のノウハウを記載する場合は、出所を明示する」
との連絡がありましたので削除いたしました。
2001/10/11
Q39 複数の遁甲の原書を読まないと駄目?2002/02/26
A 全く必要ありません。
学者や評論家などが自宅(事務所、研究室)の書斎でインタビューを受けている場面をテレビで拝見することがありますが、万巻の書物がぎっしり詰まった壁面一杯の書棚を背にしていることが多いものです。
元来、研究というものである限り、このような豊富な資料に囲まれてなければならないものかも知れませんが、いずれの分野であっても研究というものは、正解のないものを資料を掻き集めて新たな結論(オリジナル)を導くための用語ですから、研究である限り、資料やデータは多ければ多いに越したことはないとは思いますが、これらの資料等は、証拠のない裁判の陪審員のようなものですから、どんなに数を増やそうが真実か否かの証左とは無縁であり、原書というのもこの程度の位置付けに過ぎないものです。
その証拠に、原書のネタ本が「煙波」ということに異議を唱える人はいない筈です。
したがって、これ以外は不要です。
そもそも、異説が派生したのは写本の際に誤記(エラー)が人手を介する毎に多くなったことと、流儀や流派立ち上げ用のご都合主義に起因しているだけです。
当然、個人のエゴを満たすための産物ゆえ、古典とのリンクや整合性もなく、論理的検証等には到底、耐えられるものではありません。
仰せの中国、台湾、韓国、東南アジア、日本本土、沖縄などのものは、ネタ本から大きく逸脱、変容した書物に過ぎません。
したがって、これら、誤記、ご都合本をひたすら掻き集めても、その前提からして全く意味がないこと、お判りいただけたと思います。
但し、あなたの目的が真実の探求ではなく、販売目的でビジネスをされる場合は、この限りではありません。
できる限り、多く掻き集めれば、掻き集める程、商才次第で成功することも可能と思います。
しかしながら、根拠のないオリジナルをいっぱい作るということは、数学の教科書なのに写本を繰り返す度に公式が変わるようなもので、読者は、いつまでたっても正しい計算ができなくなってしまいますから、私としてはお薦めできません。
このような派生原書を基にしたオリジナルに拠ることは、エラーを無限に拡大させる原書中毒もいいとこですから、一刻も早く、原点の公式に回帰し、ここでの論理的検証に駒を戻すことです。
つまり、「煙波」と「真伝」の、この二つのみを論理的に検証すれば、それで事足りるということです。
Q40 龍遁、虎遁の八門は間違いではないの?2003/01/17
A 正解です。
天盤の乙奇が、北西の宮である乾宮に入るか、または、開門のある宮に入る場合にこれを、「龍遁」という。 天盤の乙奇が、北東の宮である艮宮に入るか、または、生門のある宮に入る場合にこれを、「虎遁」という。 |
これに対して、次のようになるのではないかとのご指摘です。
天盤の乙奇が、北西の宮である乾宮に入り、開門、休門、生門があるか、または、開門のある宮に入る場合にこれを、「龍遁」という。 天盤の乙奇が、北東の宮である艮宮に入り、開門、休門、生門があるか、または、生門のある宮に入る場合にこれを、「虎遁」という、 |
上記が真伝です。
これは、格の原理を知らないところから発生する質問ですので、ここで説明します。
ご承知のとおり、真伝では、乙奇は数に直すと4となり、陰暦での定位は巽宮です。
この対宮となる6(乾)と、その定位の八門とが逢えばプラス10という完全な数になるのでこれを乾の象意である龍になぞらえて龍遁と呼ぶわけです。
ゆえに、逢う門は必ず開門でなければならず、休門や生門は採用できないのです。
また、陽暦換算の定位で、乙奇と干合する庚は艮宮となりますので、この宮と定位の八門である生門が逢えば、寅をもじって虎遁とする次第です。
ゆえに、逢う門は必ず生門でなければならず、開門や休門は採用できないのです。
このように、すべては原理的に意味のある構成となっておりますので、真伝で検証すれば、異説のエラーがたちどころにわかるようになっているものです。
これらの原理については、真伝独自のものであり、また、真伝でなければ説明不可能なものですから、国内は勿論、世界においても誰一人、説明できる者はいないものです。
このあたりも真伝の証左ゆえ、検証してみてください。

左が陽暦の定位、右が陰暦の定位
Q41 内藤、武田流その他の遁甲等を検証するには?2003/10/07
A 質問することです。
諸葛孔明の占法にも書いている通り、日本の中国占術というものは、種の違いで分類する限り、私が最後の独立種であり、それは日本に限らず中国、世界においても同様で、今後もこの構図は変わりませんし、遁甲のコンピュータソフトに至っては私の原理の盗用によるもの以外はでない筈です。
現に、今あるソフトでの異議報告は一件もなく、コーディング原理を各製作者に尋ねても回答拒否するそうです。
白なら率先して潔白を証明するものですから、この一事で証左といえるでしょう。
さて、一応、大別すると、日本で改良された気学から創作した挨星卦を謳う内藤種、主に明時代の中国の書物を原書としてそれらに記述されている複数のノウハウを試行錯誤を繰り返しながら取捨選択してオリジナルを創作する原書研究種、当初は原書研究種であったものの試行錯誤の末、原書の原則を全く無視してオリジナルの創作をする武田種、究極の原書とリンクした整合性を保ちながら、その隙間を埋めるノウハウがいずれの原書にも存在せず、初公開であることを真伝の証左としている北条種といったところでしょうか。
とにかく、北条種の検証については論理的な回答もあり、矛盾や異議等が今後も永久にないだろうことは分かるが、武田、内藤両氏は勿論、その他の遁甲についても、同様に論理的に検証してみたいので、チェックポイントを教えてほしいとの問い合わせがありました。
つきましては、私なら、このように質問するというにとどめておきたいと思います。
武田考玄への質問
遁甲の原書を煙波とし、これに拠って玄義を書いておられますが、後に個別用という名目で先の四十格等の原理を無視し、天地干の吉凶は四柱推命の喜忌によって決まると百八十度の方向転換をしておりますが、いずれの古典にこのような方法が記載されているのでしょうか?
それとも、原書に拠るのは止めて新たにオリジナルを創作されたのでしょうか?
百歩譲って、この方法が正しいとしたら四柱推命の喜忌は正確に求める必要がありますが、十人が十人、いや、百人が百人同一の喜忌を求めることができる客観的な方程式が用意されているのでしょうか?
四則演算のような公式があれば、仮に受講修了者全員(十人でも可)を相互連絡不可能な状況の部屋に隔離の上、任意の命式を提出したとしても必ず全員同一の喜忌(勿論、格も同一)が返ってくるものですが、そのようになるのでしょうか?
同一の吉凶が決められないのなら百人百様の喜忌となり、受講修了者の定義の前提も瓦解してしまいますが、喜忌を求める過程で主観で判断するところはありませんか?
もし、統一した喜忌が得られない状態で、各修了者が恣意的に求めた喜忌を奇門遁甲の方位に応用するとしたら大変なことになってしまいます。
極端な話、八人の修了者が八方位ばらばらの吉方を指定することもあるわけですから依頼者はどこへ行ったらよいのか判らず身動きがとれません。
結局、全方位吉方なら、武田氏の奇門遁甲や四柱推命を学ぶより、代わりに方位を記した八面体サイコロを振って吉方を決めたほうが手間もコストもかかりませんし、確率の根拠も変わらないと思いますが、一体、どこにサイコロとの差異があるのでしょうか?
武田理論による奇門遁甲学入門では、航空機事故の場合でも個人差をみるとし、事故に遭っても吉方の場合生存しているとありますが、百人以上の乗客乗員中、九割以上が死亡している御巣鷹山に墜落した日航機のような場合でも反映されるか疑問です。
というのも、各自の喜忌を遁甲の天地干にあてはめると、推命の命式構造上、弾き出される五行には自ずと確率上の限界が生じてきますので、どんなに見積もっても三割以上の人は喜神の天地干に該当しなければならない仕組みとなっているからです。
とすると、三割の彼等は何故、吉方であったにも拘わらず、死亡したのでしょうか?
また、羽田沖墜落事故の場合、重傷でありながらも大半の乗客が生存していたのですからこの論理でゆくと全員が喜神の吉方だったということになりますが、確率上あり得るでしょうか?
仮に、機長の個人差が方位の吉凶を代表するとしても、命式を求めるには生時が不可欠ですから機長の生年月日時と生地を知る必要が生じてきますが、生時、生地については容易ではないと思います。
ということは、武田氏の奇門遁甲で飛行機やあらゆる乗り物の方位の吉凶を求めることは不可能ではないでしょうか?
仮にそれらのデータが判ったとしても、客観的な方程式で構成されていないということになると喜忌は統一されませんから、自動的に方位の吉凶も定まらず、前述同様、極論すればいつでもどの方位も吉方になるし、その逆もあるということにはならないでしょうか?
墜落するが死亡はしない吉方より、事故に遭遇しない凶方のほうがよほどありがたいのではないでしょうか?
これでは方位術の前提そのものが瓦解してしまいます。
そもそも、当初は個人差不要と謳っていたのが一転したのは、煙波での解釈では客観的実例の論理的検証に耐えられないことから本来の奇門遁甲に存在しない四柱推命の個人差を考慮する方法に移行したのではないでしょうか?
内藤文穏への質問
秘伝元空占術、奇門遁甲行動術、遁甲風水術秘伝に記載してある挨星卦は気学の九星のみで作られている簡単な仕組みですが、これは中国の古典にあるものでしょうか?
あるとすれば、いずれの時代の何という書物でしょうか?
秘伝元空占術には奇門遁甲の原書を煙波と書いておられますので枝葉末節こそ異なってもその根幹はこれに拠っていると思いますが、元空なるものは煙波より古く、これとリンクしているのでしょうか?
更に、中国には挨星を含む元(玄)空の五大流派があり、その秘を知ることは困難とも書いておりますが、あなたが誓約書を提出して伝授してもらったというのはその流派の一つでしょうか?
遁甲風水術秘伝では、挨星卦は気学と遁甲をミックスさせてあなたが考案したものと書いておりますし、また、秘伝元空占術では、多くの実験研究者の協力を得、三十年経って、やっと「三元」の実体がみえてきたとも書いております。
とすると、伝授してもらったというより、大半は自らの創作と仰っているように読み取れますが、本当に伝授されたのでしょうか?
伝授されたとしたら、著書には、なぜ、それを掲載しないで巷間の気学と遁甲の長所を組み合わせて考案したあなたのオリジナルを掲載しているのでしょうか?
挨星卦が方位の吉凶を左右するとしておりますが、伝授されたものと著書に掲載しているものとは異なるのでしょうか?
もし、異なるとしたら秘伝の公開という一連の出版の大義名分も瓦解しますし、万一、これで当たるとすれば五大流派の秘伝も伝授も必要ないのではないでしょうか?
なにはともあれ、その挨星卦を伴って書籍デビューした頃には既に完成した体系をお持ちであった筈なのに平成15年現在も未だその途上であるということは伝授されたノウハウが客観的実例の論理的検証に耐えられないものだったのでしょうか?
もし、そうでしたら、読者にとっては迷惑千万、地理を知らない運転手のタクシーに乗車するようなもの、まず、地理に相当するノウハウを固めてからでないと、他人様の鑑定行為などできないのではないでしょうか?
伝授された時点で一件落着、したがって、コストを回収するまで鑑定の資本とするが、三十年の労賃と土地付き家一件分の代金を支払うなら売ると公言されていたことと矛盾しませんか?
挨星卦はとどのつまり気学の九星を右に回すか左に回すかですから、方位の易卦は二つの可能性しかありません。
したがって、両方が凶卦であれば、その他のファクターが何であれ、凶方とならなければいけませんが、客観的な吉方例において、二つとも凶卦になるということはないでしょうか?
あなたの著書には昭和56年6月7日に熱海へ旅行後、商売が繁盛した福井のご主人の例がありますが、挨星卦でみると、ご主人の自宅から熱海の南東は山沢損と天沢履という凶卦です。
もっとも、山沢損の場合は損して得すると記しておりますので、吉の要素もないとはいえませんが、この場合の象意は始めに損失が生じるが後で得するということですから、予約のキャンセルが相次いだものの、後で吉に転じたというのならともかく、帰宅後、直ちに予約が入り、その繁盛がひと月近くも続いたというわけですからこれには該当せず、挨星卦の南東は完全な凶方位といわざるを得ません。
一応、東は火天大有の吉卦と風天小畜の凶卦となっておりますので、この時は新幹線の駅である米原からの方位である東の火天大有でみるとしておりますが、果たして速度差で方位の基点(太極)が変わったりするものでしょうか?
百歩譲って、速度差のあるものが方位の基点になるとすると新幹線より早い飛行機に乗れば、出発時を変えることなく、方位だけを変えることが可能という無茶苦茶なことになってしまいます。
仮に、この例のご主人が熱海に宿泊せず、そこから羽田に行って飛行機で北海道に宿泊すれば方位は羽田からみた北に、九州なら西か南西と云う具合に百八十度変わりますが、出発時は辰刻のままです。
この論理でゆくと秘伝元空占術で述べておられる新聞記事等での移転の検証などできないのではないでしょうか?
つまり、移転する場合、方位は現住所からみるものですが、飛行機や新幹線に乗車する度に太極という方位の基点がころころ変わるのですから直近に乗った飛行機なり新幹線の出発地でみなければならず、移転先から再度移転する際も同様です。
ということは、もはや、第三者が他人の移転の事例を知ったとしても方位が判らないのですからそれを検証することは不可能となります。
大体、飛行機や新幹線にいつ乗ったかなど本人しか判らないもの、しかも当人さえ忘れているかもしれませんし、勿論、新聞等にも記載されておりませんから、この論理でゆく限り、どこからどこへ移動したのか判るすべはありません。
また、一家で移転となると家族全員がばらばらにそれらに乗っていたら一体、方位はどのようにみればよいのでしょうか?
大黒柱である父親をみるとすれば筋は通りますが、実質の大黒柱がおらず、拮抗している場合は全員をみなければいけませんし、その前にこれでは気学のような個人方位術となり、あなたの主張する個人差不要と背反してしまいます。
時の集積が日になり、月になり、年になるのですから移転とて太極の原則に例外はありません。
当然、こんな論理が成立する筈もなく、方位の原則は前提から瓦解してしまいます。
本当のところ、南東が吉卦になっていれば東にはならなかったのではないでしょうか?
吉方でも高邁で無欲な心がないと凶方になると書いておりますが、そうしますと、奇門遁甲は科学のような物理的要因からなる電気理論ではなく、心理学がコアで、当人の心理状態如何で吉凶が決まるということになりますが、これだと秘伝にする必要などないばかりか、学ぶことさえ無意味ではないでしょうか?
何故なら、仮に作盤や判断の方法をマスターしたとしても、最終的な吉凶は本人の心理状態で決まるということは、そうそう、無欲で高邁で清廉潔白な人はおりませんから、事実上、どんな吉方を使用してもすべて凶方になるのではないでしょうか?
そもそも、黄帝は戦争の際にこの術を伝授され、使用したわけで、以後、そのノウハウである作盤や判断の方法は秘伝とされ、その真伝の争奪は熾烈を極めた歴史があったのではないでしょうか?
あなたの論でゆくと、無欲で高邁な理想を持っていない者がその秘を知ったとしても何の役にも立たないのですから、兵法には使えず、秘伝にもならず、争奪さえおこりませんし、継承者に至っては戦争などしないので全員が竹林の七賢となるでしょう。
したがって太公望にも張良にも諸葛孔明にも伝わらないことになります。
とすると、あなたの挨星卦なるものはこれらの人物とは無関係の産物でしょうか?
随分昔になりますが某テレビ番組に録画出演していた際、あなたはこう云っておりました。
ベレー帽をかぶったあなたは諸葛孔明、真伝と大書したフリップを掲げて、人事百般何でも判ると公言したものの、では、インタビュアー自身のことで判ることを教えてくださいと懇請されるや あなたの回答は「いやあ、知らないほうがいいんじゃないんですか」の一点張り、インタビュアーは「構いませんから教えてください」のやりとりが続くものの、結局、回答は得られなかったと述べておりました。
しかし、これではインタビュアーも視聴者もあなたが本当に知っていたのか否か検証できません。
このような公言や回答は好ましくないとは思いませんか?
本当のところ、奇門遁甲の判断にもともと心理要因などないのではないでしょうか?
原書研究者への質問
煙波以降の複数の書物から当たるノウハウのみを取捨選択して集大成するとのことですが、当たるか否かの判定を客観的にする方法はあるのでしょうか?
もし、主観で決めるのなら当たるとはいえませんから取捨選択も不可能ですし、それ以前に原書の源は煙波ですからこれ以外の異説等に拠ってはいけないのではないでしょうか?
また、坐山が無かったのではなどという新説もこの延長にすぎないもので、原因は至ってシンプルなものです。
つまり、当たらないのは局の採り方が間違っているのではと考え、坐山の六十時(五日)一局に置き換えただけのことです。
一応、百歩譲って坐山は存在しなかったとしてみましょう。
すると、その根拠は派生原書の多くに記述されていないというだけになります。
しかしながら、これらの事実は今に始まったわけではありませんから、原書研究者たるもの、当然、デビュー時から主張していなければならないにもかかわらず、何故、当初は立向、坐山を認めていたのでしょうか?
もし、研究年数が数十年以上だとしたら、その間、気付かなかったということになりますが、では、一体、何を研究していたのでしょうか?
ある日、突然、派生原書の内容が書き換えられたということならいざ知らず、これらに鑑みる限り、最近になって急仕上げでそれまでの主張を一転させたとしか思えません。
それとも、新たに差異を作らざるを得なかったのでしょうか?
派生原書それぞれを認めているようですし、また、明時代の人物の秘伝なるものも新たに採択されておりますが、百歩譲ってそれが正しいとしたら、何故、当初から主張されなかったのでしょうか?
日本とのレート差が甚だしい中国では、原書等も日本円でたかだか数十円に過ぎず、現地でこそ重宝がってる人はいないものの、未公開の秘伝と称して和訳して日本で売ったり伝授すれば一大市場を形成できるということから、どんどん日本へ進出しているのが実情でして、法人、個人を問わず、よくもまあ、次から次へとなだれ込むものだと呆れております。
その秘伝なるものの日本でのフロントになっているということは、原書研究はお止めになったのでしょうか?
最近でてきた書物などというものは原書とはいえず、仮に家伝としても素材等の科学的分析をすれば相当新しいものであることが判明することが多いものです。
戦後五十年、古典、古書の類はそれらも含めてすべて出尽くしており、兵書や易書の類も例外ではありません。
あなたは当初、秘伝や真伝を認めず、既存の複数の原書から当たるノウハウのみを取捨選択して集大成するのが正しいと標榜しておりましたが、一転して秘伝や真伝に傾いたということは、煙波が解けないことは勿論、派生原書ではどうにもならない論理的検証の壁に当たってしまったと考えてよいでしょうか?
新たな秘伝やら、複数の原書と、やたらと信奉されておりますが、一体、どれが正しいのでしょうか?
秘伝や真伝の検証はその中身が論理的整合性があるか否かであり、純金を例にとるとよく判るように、その真偽は成分分析であるのだから、成分に相当するノウハウは論理的検証に耐えられるものでしょうか?
特に、その秘伝の源が明の時代にあるということは、黄帝は勿論、太公望、張良、諸葛孔明とも無縁の産物となりますが、果たしてそれで奇門遁甲といえるのでしょうか?
さわりの部分は、黄帝紀元の干支列の暦を謳い、孔明までの事跡を讃えるものの、いざ、ノウハウはというと一気にスキップして明の時代にもってくるとしたら、論理の前提が瓦解してしまいませんか?
遁甲のソフトを作成しているそうですが、干と数の対応は勿論、原理公式はどのようにされておりますか?
本当のところ、派生原書では論理的検証に耐えられないことをお知りになり、新たに秘伝、真伝を求める方向へと移行されたのではないでしょうか?
後記
随分昔のことですが、武田考玄、内藤文穏から、具体的箇所の指摘が一切ないまま、著作権侵害があると虚偽を云ってきたことがありました。
戯言とはいえ、看過できないので次の通り、返答致したところ、
- 具体的箇所を示せ
- 著作権侵害は一点も存在しない
- 法的措置をとる
これ以後、直接、言い掛かりをつけることはありませんでしたが、その後も水面下で訴訟されたかのような虚言を弄していたらしく、問い合わせがあったことを機に、両関係者(内藤のほうは東洋書院の代表、武田のほうは秀央社、日本命理学界の代表であり、故人の妻)に本年、直接、内容証明を送付しましたところ、公式に事実無根を認めましたのでここにお知らせしておきます。
参考までに申し上げますと、具体的箇所が存在しない訴訟をおこす専門家はおりませんが、虚偽内容の内容証明だけなら、金に困っていたりする弁護士なら寄越すこともあるものです。
勿論、まともな弁護士は一切いたしませんから、早晩、このような者は処罰されるものです。
かつて内藤の代理として同様なる行為におよんだ者も、同法違反のかどで多くの被害者から訴えられ、本年に所属弁護士会から資格剥奪の処分に加えて、地検から逮捕されております。
一方、武田のほうの代理は著作権侵害の事実が一点も存在しないことを認めたため、お辞めになることはなかったものです。
新聞報道によると、内藤の代理は不動産投資に失敗し、十一億余りの負債を抱え、その穴埋めのために顧客から着服を繰り返し、その被害は数億にのぼるものとみられているようですが、素朴な疑問として、何故、それだけの着服金があるのなら内藤の秘伝を買わなかったのか、また、内藤の挨星卦を使用しなかったのかと思います。
昭和五十年代後半、三十年の労賃と土地付き家一件分なら売ると公言していたのですから、地価が下落し、デフレ経済真っ只中の平成15年なら一億もあれば入手できるだろうし、負債もたちどころに返済されると思うにつけ、不思議でなりません。
もしかして、これも内藤の主張する毒出しということでこれから目覚しく発展する兆しかも知れませんが、私には一切を失ったとしか映りませんし、そもそも、戦は一回勝負、討ち死にが毒出しなら、あの世で勝利するための兵法が奇門遁甲ということになりますが、これでは、史実とも符合しませんし、無茶苦茶で論理の前提が崩壊しているとしかいえないと思います。
私の興味や関心はあくまで学術の論理にあるのだから、ここに正面から対峙できないようなら論外といわざるを得ません。
人生のエネルギーを間違った方向に向けるのではなく、学説批判があれば、その反証に全力を傾注するのが筋であり、それが学術を標榜するものの責務だと思っている次第です。
もとより、とるに足りない話ですが、著作権侵害について虚偽虚言を弄するとなるとけじめをつけておかねばなりませんのであえて申し上げました次第です。
Q42 大雪年始は何に基づいているの?2003/12/12
A 北斗七星です。
偽伝では寅月が一般的であり、巷間の中国占法の大半がこれに拠っているのが現状ですが、何故、そうなるのかについての原理的説明をされている方は皆無です。
しかしながら、先に述べたように子月で無い限り、六十干支暦との矛盾は埋められず論理は破綻します。
論拠を明示して大雪年始としたのは私が初めてであり、真伝の証左でもあります。
巷間では、古来、三正といって正月を子丑寅の三つにする説があったが寅の年始で現在まで不都合がなかったのでこれでよいとか
当たればいいんだ式の暴論がまかり通っているようですが、土台がないのに家だけがその上に建っているようなもの、机上の空論甚だしいものといえるでしょう。
云うまでも無く、客観的な検証で当たるものなど一件もありません。
それは、ゼロという土台にいくら掛けてもゼロということで、仮に百億、百兆、いや地球上の全ての富の額をかけても一円にもならないことでお判りいただけると思います。
では、どうして子月が年始になるのか原理を説明します。
これは、北極星を中心にして北斗七星の柄の部分が丁度、時計の針のような形で一年間に各方位を指してゆくことに由来しているわけで、旧暦の11月には十二支の一番目の支である子の方位を指すので子月が年始となるのです。
また、子は中間から区切られておりませんので、始まりも冬至ではなく大雪からとなります。
詳しくいえば、各月の中間日である15、16日の戌刻(正確には午後8時)に真方位となることからこの日と時刻を基準としている仕組みです。
11月には子、12月には丑、1月には寅と順次巡ってゆき、10月には亥となって一周します。
これにより、基準の戌刻と各月の柄の指す方位の支との間隔には一定のきまりが生じてきますので、そのきまりを用いることにより、旧暦月を知るだけで観測をしなくても北斗七星の位置が判るようになるのです。
たとえば年始である11月の戌と子の間は三つですからこの月の柄の方位を知ろうとすると知りたい時刻の三つ先の支と覚えておけばよいのです。
但し、戌刻の柄の方位は子ですが、一日の始まりは子刻ですからこの子刻に柄の指す方位は三つ先の支である寅となります。
この柄の指す方位を北斗の神が宿るところとし、神のいる方位を犯せば戦には破れるが、逆に対局の方位には神の威光が照射されるので柄の指す方位を背にして反対の方位に向かえば必ず勝つとしたのが巷間知られている破軍占術の原理です。
これが旧暦の1月イコール寅となった所以ですが、あくまで基軸は子刻ですから始まりはすべて子となります。
また、戌刻が天の時計の基準となっているのも天文遁甲の原理によるもので、戌が辰(龍)の対局である為、その意思が反映されているという理屈です。
つまり、天文遁甲では、天球上で時計の針を動かしているのは神(龍)の意思とされているのです。
巽宮をいずれも蛇である辰と巳の二支に支配させているのもこの宮が神(龍)のいる特別な場所であることに他なりません。
従って、巽宮を甲としている奇門遁甲の陽暦換算の干の定位や、月星の家紋の星の位置も任意に決められるものではなく、必ず、巽宮の位置に納まるように原理に裏打ちされているものなのです。
また、天文遁甲という名称の占法も本来、存在しません。
これは中国占術の源の占星術ということから、地上の遁甲に対して、北極星を中宮とする天上の遁甲という意味を込めて私が命名したものです。
唯、一点、日本書紀の遁甲の伝来のくだりに天文遁甲の記述がありますが、これはそう読むのではなく、漢文ゆえ、天文と遁甲を繋げて書いてあるだけで、正しくは百済の僧が暦と天文と地理と遁甲と方術の五つの異なった学問を携えてやってきて、ある者は暦を学び、ある者は天文と遁甲を学び、ある者は方術を学んだと読みます。
ちなみに方術とは方位術の略ではなく、医学であり、今で云う漢方の「方」の意味で、この術を方術と呼び、医術のことを指します。
随分昔になりますが、気学や奇門遁甲をお書きになっている有名な著者なども遁甲方術のことを遁甲方位術の略記として認識し、引き合いに出してお書きになっておられたものも少なからずありましたが正しくは上記の通りです。
現在でも原書研究者達の間では遁甲方術イコール遁甲方位術と解釈している人がいると聞いておりますが研究以前のレベルであり、極めて遺憾に思っている次第です。
真伝には継承者しか解けない、判らない部分が多々ありますのでこういったところも参考にしてください。
Q43 他流派へ尋ねても答えてくれないのですが大雪年始等への反証等は?2003/12/26
A ありません
結論から申し上げて反論は不可能ですから、拒否されるのは無理もありません。
ですから、大切なことはこれらをふまえた上でご自身で判断されることです。
一応、他の読者からも他流に尋ねた際のやりとりが寄せられておりますので紹介しておきます。
- 坐山は存在しなかったって本当ですか -
中国の書物には透派しか書いていないのです。
- 研究年数は -
三十年以上です
- でも最近まで坐山の通信教育をしていましたよね -
間違いに気づいて数年前に廃止しております。
- 廃止までの二十数年間は透派のみを研究していたのですか -
複数の原書を研究していました。
- では何故少数派の透派を認めていたのですか -
....................。
- 透派一本で研究したが、その後複数の原書に接して少数派なので間違いと思ったとか、あるいは一切の研究自体が最近始めたばかりで実際は四、五年のキャリアであるというのなら話はわかりますが、坐山不存在の原理的な証しはありますか -
坐山が存在しないと言っているのではなく、これを記載しているのは透派だけと申し上げているのです。
- ならば、遁甲に立向坐山の二盤があるのは正しいのですね -
....................。
- 坐山はあるのかないのか、何がいいたいのか判らないのですが -
....................。
- 年始は寅月ですか -
はい、立春をとります。毎年、二月の節入りから区切るようになっており、新旧いずれの暦でも同じです。
- 六十干支暦では甲子年甲子月甲子日甲子時から始まると思いますが、寅月年始では噛み合わないのでは -
当たればよいのだから理論上の矛盾は無視してもいいのです.。
- じゃあ、暦など必要ありませんね、従って、これに基づいて判断する仕組みではないのだから他人の生年月日でも任意の日付でも当たればよいということですか -
....................。
後記
遁甲に限らず、六十干支暦を用いる中国占術において、一年の始まりが子月であるということは動かざる原則であり、慣習やシェアで寅月が上回っているからこれを、すなわち立春を年始にするとしているのは、メッキが多くなれば純金と質量の変換がおこるというようなものであり得ないことです。
中世には天動説の書物の数は地動説を遥かに凌駕していたものですが、真実はシェア1パーセントにも満たない地動説にありました。
云うまでもなく正しいか否かは書物の数などではなく、原理的根拠にあることはいつの世も同じで遁甲の坐山についても同様です。
結局、坐山が存在するということに異論を唱える人こそいなかったみたいですが、検証の姿勢はお判りいただけたのではと思います。
何故、寅月が年始になるのか、六十干支暦との矛盾はどう説明するのかに対して納得のゆく回答が得られないとなればその先は火を見るより明らかです。
上記に留意して判断してみてください。
Q44 遁甲で末期ガンが治るって本当?2004/02/12
A ありえません。
奇門遁甲では個人の器を変えることはできません。 あくまで、本来の能力なり、資質なり、各自が保持している「器」のベースである充電量をいたずらに漏洩させない術ですから、自動車の燃費と同じ理屈です。
つまり、満タンに給油した容量以上の走行は不可能です。
但し、エンジンや車体の構造、運転の技術や走路如何で走行距離は伸びたり縮んだりしますので、結果として容量が増えたことになりますが、これとて、単なる節約効果に過ぎず、平均でリッター20キロ走る車が25キロ程度にはなっても30キロから倍の40キロやそれ以上になることは絶対にありません。
医療上のガン、特に末期症状を呈している物理的要因が確定している段階では後天的な個人の器が確定した後ですから処置無しが本当のところです。
遁甲で可能なのは、初期段階に適切な治療を施してくれる名医に巡り合えることとか、患者個人の免疫力、治癒力をアップさせるということくらいです。
従って、遁甲で末期ガンが治るとのふれこみがあれば百パーセント虚言です。
また、ガンだけではなく遁甲を使うと50万円儲かる、100万円儲かるという類も同様で、本来の奇門遁甲(真伝)ではそのようなことはありません。
あくまで、各自の能力に応じた報酬ですからこれらと因果関係のない成果が発生することはありません。
もし、そうなら諸葛孔明は魏を破り、中国史は変わっていた筈ですし、自動的に世界史も変わりますがそうなっていないことをみてもお判りいただける筈です。
末期ガンといえば、当ページのQ&Aにも書いているスワミ デヴァ サカ(劉家三元奇門遁甲と称して私の著作権侵害をしていた九天玄学会の主催者)という人物がプロフィールに自らの体験として、三箇所に転移した末期ガンが僅か一年で完治したと書いていたのを見て驚いたことがあります。
何故なら、世界的にも稀少例である上に、退院できた人も存命がやっとというのが趨勢の中、極めて健康で武術道場も経営しているとしているからです。
かの名優、スティーブマックイーンでさえ、最善の治療の甲斐なく喉まで転移していた肺ガンで死去したくらいです。
もし、これが事実だとしたら、この一事だけで、充分すぎるくらいの生きた標本として医学界の珍事、奇跡の人となるでしょうし、まさにギネスものです。
日本医師会、国際医学学会、国立ガンセンターに推挙すれば必ず研究論文の対象になること間違いありませんが、寡聞にして私はそのような事例を知りません。
一体、どこの医師がそのような診断(処置無し末期ガン)を下したのか興味のあるところですが、いずれにしましても、具体的な金額が儲かるとか末期ガンが治るなどというのは自身の末期症状を呈しているとしか思えません。
実はこのスワミ、デヴァ、サカなる者、人騒がせな男で、香港の陳という男から劉家成の名を頂戴し、武術その他占術を伝授されたと称しているのですが、困ったことに伝授されたという三元奇門遁甲が何を隠そう百パーセント私のノウハウの丸写しなのです。
そこで、この件について尋ねてみたところ、
実は自分も被害者であり、勝手に名前を使われているので困っている。 偽サカを探して処罰する。 |
と弁明するので、前回のQ&Aから詳細を削除したのですが、ほとぼりが醒めたとみたのか、最近、この偽サカのページ内容がそのまま上記回答を寄越した現行のスワミ、デヴァ、サカのページに移転しているとの問い合わせを受け、再度、尋ねてみました。
以下はそのやりとりです。
何故、あなたと無関係な盗用者のページが掲載されているのか
サカ ページは複数の者に委託して作成してもらっていますが連絡先を知らず、削除できない
では作成者が偽サカですか
サカ はい、小林が1つ、寿原が1つ、長田が2つ、渡辺が1つ、松浦が1つを作成しました。
では、九天玄学会やスワミデヴァサカの名称も変更して偽サカと決別し新たなページを立てたらどうですか
サカ これは台湾の師匠から頂戴した名称なので変更したくないのです
偽サカは香港の陳という師匠から頂戴したと書いていますが、生年も1961年と同じ、頂戴した名前も劉家成と同じ、そして同じページに掲載しており、メールのアドレスも同じということはおかしいと思いませか
サカ 偽サカは大雪年始を採っていますが私は立春年始を採っております。
また、勝手に偽サカにリンクを張られているのでそうなっているだけです。
偽サカのノウハウは私の陽暦換算の丸写しですが、それなら、あなたの三元奇門遁甲はどのようなノウハウですか
サカ 広く知られている天地盤と八門の吉凶でみるもので武田考玄のものと同じです。
偽サカは人破とか人冲殺と称して陽暦換算の人の和のノウハウを造語で使用していますが知っていますか
サカ 私も人破とか人冲殺の名は使っていますが、そのノウハウではありません。
盗用者と協力関係でページを運用していくというならあなたも共犯としなければなりませんが委託関係でありながら連絡は不可、証明送達の住所氏名も知らないということは考えられません。
本当は偽サカは存在せずあなたが犯人(盗作者)ではありませんか
サカ それは絶対に違います。偽サカは二人以上いて勝手にページを立ち上げ、私のページにリンクしているのです。
だったらなおのこと、偽サカへの委託を取り止めて名称変更すべきではありませんか。
東京三菱銀行西荻支店の支店長も「このような犯罪者と知っていたら口座開設には応じない」と当時云っておりましたが、あなたの云うことが事実なら同銀行はあなたの借名口座を開設していて、偽サカはそれを隠れ蓑にして、私の著作権侵害で商売していることになり、それを容認しているあなたも銀行もその担う役割は小さくないですよ。
本当にあなたと偽サカが別人であるのなら、西荻支店の開設者と現在のあなたが一致していなことを検証しなければなりませんので、あなたの現在の口座と住民票上の住所氏名を教えてください。
サカ 。
あなたが犯人でないのなら両者は一致しない筈ですので何等心配はありません偽サカを追いますので教えてください。
サカ 。
閲覧者へお願い
これらに鑑みると、おそらく、偽サカは存在せず、上記のスワミデヴァサカが盗作者と思いますので、著作権侵害等で処罰せねばなりませんが、住所氏名を明らかにしないので文書の送達ができませんし、銀行も規則上から開示は致しません。
窃盗といってもこのような例は刑事ではなく民事ですから警察も管轄外ですし、当該者の使用しているプロバイダーも同様に規則上から開示は致しません。
そこで、この人物の住所氏名をご存知の方、同氏から機関紙や発行物を購入した方で三元奇門遁甲に関する記述をお持ちの方がいらっしゃればお知らせください。
また、テレビ、雑誌等や出版等でも活動しているという話も聞いておりますので、この点についても具体的な出版社名、筆名等がお判りになれば併せてお願いします。
今後のために、たとえ話をひとつ
あなたのブランドバッグがある日盗まれて市場で売られていたとします。
当然、持ち主は抗議しますが、相手はこう云うかも知れません。
「外国で買ったもの、同一のものがあってもおかしくないでしょう。」
確かにその場合は一理あるかも知れません。
しかし、持ち主は万一を考えて自分のバッグに拭い去ることのできない指紋のようなサインを随所に付けておいたので、こう云いました。
「でしたら、そのバックに私の指紋やサインがどうしてついているのですか」
もし、嫌疑をかけられた者が窃盗犯でなければ、そして、そのバッグが盗品でなければ被害者の指紋やサインなどついている筈がないのです。
いつ、どこで、誰から買ったなどというのは関係ありません。
争点は一点のみ、バックに被害者の持ち物であることを証明する指紋やサインがあるか否かです。
ゆえに、偽サカ、すなわちスワミデヴァサカの劉家三元奇門遁甲はまぎれもなく私のノウハウからの盗用盗作と立証されるわけです。
従って、香港の陳という人物も存在しないということになり、遁甲に限らずそこから伝授されたと称する一切も虚偽であるということです。
有力な情報(当該人物を特定できる事実)をお寄せ下さった方には薄謝進呈しますので当方まで郵便でお願いします。
話は変わりまして、もう一つ問い合わせが多いのが遁甲ソフトで、とりあえず代表的なものを二つ挙げておきます。
一つはフォーチュンソフト、一つはNaosoftです。
ご承知のとおり私の原理を用いないで作成することは遁甲の場合、特に難しいこともあり、かねがね市販のソフトはどうしているのか興味がありましたが、何分、私自身が確認しておりませんので、近い内に製作者宛に書信でお伺いすることにしようと思っております。
幸い、両者とも住所氏名が公表されておりますし、私が逆の立場なら明確に原理の説明も付してすっきりした回答を致しますので必ずや良きご返事が頂戴できるものと思っている次第です。
Q45 遁甲や推命は発展しているので原書研究は必要では?2004/04/14
A 不要です。
素人はどうしても研究という言葉に魅かれがちなのですが、科学技術等と違ってこれらに発展などありません。
それはあり得ないパラドックスを成立させるからで、よく考えれば誰でもお判りになることです。
百歩譲って、未だ研究途上と考えてみましょう。
すると、この学術は未完成ということになります。
未完成とすれば史実にあるような事績が得られることは考えられませんので黄帝から諸葛孔明までの史実自体もなくなります。
当然、自動的に八門遁甲の存在も消滅します。
勿論、派生原書とて因果律から例外ではありませんから、その存在自体が大前提から瓦解、崩壊してしまいます。
つまり、派生原書たるもの、その数がいくらあろうと後世の創作であることに変わりありません。
だとしたら、これらに一体、何の価値があり、何を研究する必要があるというのでしょうか?
その他の中国占法も然りで、古の史実とノウハウをペアとして喧伝しているものである限り、これらのマスター(原書)の踏襲か真伝以外に一考すべきものは存在しないことお知りおきください。
孫子の兵法をみてください。
その出版数は膨大なれど、一書たりともその骨子を変えている著者はおりませんし既存の兵書を集め、新たに研究する必要があるといっている人など一人もいないでしょう。
他の中国文学も同様です。
これは、当然のことでありまして、昨日、今日発見された書物ではなく、現在まで悠久なる年月を経ているわけで、少なく見積もっても数百年以上前のものです。
勿論、解釈の間違いや誤記、誤植も当初はあったろうとは思いますが、それらは全て、その間に携わった学者等によって補填されて完了しているものです。
従って、まだ原書の研究が必要というなら、それは大変な罪を犯していることにご自身が気づいていない方といえます。
それは、何千年にも亘る学者、研究者の解読を間違いとすることになるからです。
原書の研究に価値があったり、中国に真伝継承者が本当に存在すれば、私の原理が無断盗用されたりすることなどあり得ないことですが現状はそうでもないようです。
紫音飛星丸氏も未承諾使用者でしたが、同氏の家伝に私の暦や作盤ノウハウ等が存在しないことを確認した上で、本年の三月に契約を交わしました。
また、同氏と接点のある人達も著作権侵害をしていないと断定できる人はいないということなので、もし、その場合は契約を交わさない限り、いずれ、確認の上、然るべき処置をとります。
とにかく、紫音氏のように正しい対応をされる方は別として、不正ソフトを作成している人は、とかく、検問にひっかかったドライバーのように、虚偽、虚言を弄してあがくことが多いようですが、潔い態度を期待したいものです。
そんなわけですから、遁甲ソフト等をお求めの方で、ご自身でリバースエンジニアリングをし、このQ&Aの1の原理を使用していることを確認しましたら製作者に代金全額の返金を求めてください。
何故なら、私と関係のない独立の研究やソースによるソフトと信じて購入した筈が、蓋をあけたら「メイドイン北条」ではたまったものではないからです。
その場合はおそらく私の権利表示もしていないでしょうから錯誤による無効と申し出ればよいでしょう。
それでも、応じなければ、その証拠を添えて私宛に送付してください。
私の方で著作権侵害で製作者を提訴いたします。
後記
一書を研究するよりも、多くの書物を研究したほうがよいというのは体のよい口実で、本音は品数を増やして商売の種を多く撒こうということです。
その証拠に、そのような主張をしている人達の研究はいつまでたっても終わらないでしょう。
一冊で駄目だから二冊目を漁り、二冊目で駄目だから三冊目を漁るのです。
この数が増えるほど何も判っていないことが証明されてしまう皮肉な結果となってしまいます。
要するに、科学のように進歩しながらの発展ではなく、一つとして結論が得られないのですから、はつかねずみの回す車のように空回りの堂々巡りが永久に続くだけで、エジソンの研究じゃありませんが役に立たない一万回の失敗に基づいて電灯を作ろうとしても無駄なように、これに相当する派生原書をいくら漁っても徒労に終わるだけです。
電灯の製法が知りたいのか、エジソンの研究過程が知りたいのか、
遁甲のノウハウを知りたいのか、遁甲の模索の過程を知りたいのか、
どちらを選ぶかです。
原書研究というのは後者です。
Q46 中国の標準的遁甲では六十時一局って本当?2004/06/28
A 違います。
六十時一局は坐山時盤の局数であり、正しい立向時盤の局数は十時一局です。
「中国では」「標準的」「本場では」というと素人は何の疑いもなく、受け容れてしまいがちですが、奇門遁甲をはじめとする中国占法の実情に合致するか否かを今一度、検証すればたちどころにその嘘が露見するものです。
まず、「中国では」についてですが、近年の中国を対象としているようですが、それでは、あなたは、少なくとも戦後の中国の易者、占い師さんなり、研究者達のオリジナルなり、解釈なりを著した書物を源とするのでしょうか?
そうではなく、三国志に登場する奇(八)門遁甲を源としているのでしょう?
だとしたら、最古の原書であり、派生原書の源、つまり、ネタ本となった「煙波」一書をベースに考えなければなりませんよね。
その上で、煙波に書かれている局数は六十時一局、十時一局いずれとなっておりますか?
「十時一易」つまり、十刻毎に局数は変わると書いてあるでしょう。
だから、発祥時の中国では十時一局が正しく、六十時一局というのは間違いなのです。
次に、「標準的」についてですが、スタンダードというのは、一口で云えば平均値のようなもので、複数のノウハウが乱立する場合の最大公約数上、最も多いものを指す言葉です。
しかし、一つの原書しかそもそも存在しないのですから、この平均値を求める前提もなく、当然、標準(スタンダード)というものも成立しません。
強いてあげれば、煙波一書のみが標準といえるものです。
にも拘わらず、近年の中国で創作される派生した原書の類の平均値を求めることに、一体、どんな意味があるというのでしょうか?
偽伝のスタンダード、役に立たないオリジナルの標準を求めるのならそれはそれで筋がとおりますが........。
また、本場というのも然りで、単に発祥国の国民であるということを売り物にしているようなもので、その実は何も知らないのが本当のところです。
日本が敗戦後、欧米コンプレックスであった頃、英会話スクールには随分悪徳なものがあったそうで、人件費の安い一般人を講師として迎え、大儲けしたそうです。
外国旅行もままならぬ状態の日本では、これらの先生を「本場」のクイーンイングリッシュ?の伝道師と信じて疑わなかったとしても無理からぬことですが、下手に覚えた方言や粗雑な言語を直すのは一苦労だったでしょう。
唯、この場合は、本物の講師が存在すれば解決しますし、それが本場の成立条件なのですが、もし、遥か昔に欧米のクイーンイングリッシュを用いる人は絶滅し、現在は無関係な現地人がいるのみとしたらどうでしょう。
そんな中で、かつて本場であった国に渡ったとしても、何の役にも立たない筈です。
大切なことは絶滅した彼等の残したテキストとその発音を録音したメディアに則って学ぶことであり、また、習得者が発祥国以外にいるとすれば、そちらが本場となるので、そこへゆかねばなりません。
このたとえのテキストが煙波であり、メディアがそれらとリンクする整合性です。
以前に私の読者と称する中国、台湾の人から、自分は色々勉強したが、 私の著書が一番よく、暦その他のノウハウの詳細を教えて欲しいと手紙を頂戴 したことがありました。
残念ながら、海賊版ゆえ、購入の前提がないのでお断りしましたが、このことからも、中国や台湾が本場ではなく、真伝も存在しないことがお判りいただけるものと存じます。
それは、日本発祥の柔道、相撲の技術指導を外国に求めるようなもの、真言密教の不空亡き後、インドは龍の抜け殻、最早、本場ではなく、中国の恵果に求めなければ得られず、また、恵果亡き後は、中国も抜け殻で本場ではなくなり、日本の空海に求めなければ得られないという具合にかつての本場には何の意味もないことが伝承の理だからでもあります。
巷間で私のノウハウが盗用されているのも本物ゆえの証左であり、でなければ、誰も盗用したりしないものです。
真伝のノウハウは特異で簡明ゆえ、盗用すれば直ちに判明するもので、巷間の原書等とは具体的なノウハウの差異があり、それは奇門遁甲は勿論、四柱推命においても同様です。
簡単なものからいえば、蔵干の配分があります。
子 壬癸 | 丑 癸己 | 寅 己甲 | 卯 甲乙 | 辰 乙戊 | 巳 戊丙 |
午 丙丁 | 未 丁己 | 申 己庚 | 酉 庚辛 | 戌 辛戊 | 亥 戊壬 |
これは、昭和59年に発表した真伝のもので、徳間書店刊の四柱推命でも発表していたので、多くの人がご存知と思いますが、公表以前に中国は勿論、世界中どこにも存在しないノウハウです。
流石に、これだけ明白なものだと、盗用がすぐに露見しますので、ここ二十年間はありませんが、遁甲、推命いずれにしても「真伝」でなければ駄目だということに気づくものですから、遁甲の干と数の対応や計算式のごとく推命の場合でも盗用者がでないとも限りませんので、万一、発見した場合はご一報お願いいたします。
また、スワミデバサカの知り合いと称する埼玉からの情報提供もありましたが、不充分なもので一切を提供して下さるようお願いします。
盗作というのは著述、出版界ではスポーツの八百長と同じく、永久追放に値する重罪ですから、いたずらにかくまったりすることは本当の愛情ではありません。
親の友ならば、禊を受けさせるべきですし、一方、突き出された当人も人として本物ならば、後にその決断に感謝するものです。
なぜなら、誰が悪いのでもなく、すべては自分が蒔いた種ですから、それを刈り取るのも自分でなければならないことに気付く筈だからであります。
同様に盗作者(遁甲ソフト含む)を支持している人がいればその人も盗作者となりますので、早くこの悪循環を断ち切る勇気を持って下さることを切にお願い申し上げます。
なお、個人を特定する情報をお寄せくださった方には薄謝を差し上げます。
Q47 三元奇門遁甲という名は、内藤文穏が作ったもので、彼に商標権があるって本当?2004/08/31
A ありません。
まず、「三元奇門遁甲」という名称ですが、これは内藤のオリジナルではありません。
三元というのは、中国では普遍的な用語であり、遁甲三元とか、遁甲奇門として、内藤以前から存在しております。
したがって、これを日本読みにすると三元遁甲(奇門遁甲)、奇門遁甲となるわけであって、三元奇門遁甲というのは、ただの普通の読みであって、新語でも造語でもありません。
もともと、遁甲とは天地人、つまり、天の時、地の利、人の和で判断する仕組みとして書物等にも記載されているのですが、日本では、各方位の天干と地干のみの吉凶で判断する部分しか浸透していない為、 この「三元」 という名を冠することが無かったにすぎません。
丁度、推命のように、八字(四柱)でみるのが本来の仕組みなのに、商策から戦後の日本では六字(三柱)でみるのが浸透したようなものです。
そんな中、誰かが、これを初めて、八字(四柱)推命として日本で上梓したとしても、その人に独占使用権が与えられるかというと全くないのです。
なぜなら、八字(四柱)というのがその著者独自のものではなく、本来(原書)の仕組みそのものだからです。
遁甲も同じで、天地人三元(三才)が本来の仕組みですから、この普遍的用語の三元と、奇門遁甲をカップリングさせた「三元奇門遁甲」なる書名には何等の権利も発生いたしませんから、誰でも自由に使用できます。
ここら辺のことが判らないとなれば、無知を露呈する自殺行為となりますのでおそらく、内藤本人が云っていることではない筈です。
また、書名だけではなく、団体名などにもこれは適用されます。
たとえば、先のQ&Aに書いた武田考玄が主催する「日本命理学会」などがいい例でしょう。
実は、この「命理学会」という名称は遡ること数十年前の昭和初期に、四柱推命の高木乗氏によって、既に、自ら主催する会の名称として採用されていたものです。
この頭に日本をくっつけて、主催名にしたことに対し、二代目の高木乗氏から侵害とのクレームもあったそうですが、これはお門違いなことで、著作権侵害でもなければ商標権侵害でもなく、法的にも何等、問題のないことなのです。
それは、「命理学」という用語が高木氏のオリジナルではなく、中国での四柱推命の別名として八字、子平と並んで一般的に用いられていた公共語だからで、いくら、その用語を気に入って、日本で最初に四柱推命を「命理学」として紹介したのが高木氏であっても、それらに何等かの権利が発生するかというと、これまた、無いというわけです。
ゆえに、今後、誰かが、世界命理学会とか国際命理学会を立ち上げたとしても、武田考玄にクレームをつける権利がないことは云うまでもありません。
スワミ、デヴァ、サカなる人物が私の陽暦換算の三元奇門遁甲のノウハウを盗用している件も名称を対象にしているのではなく、新門出版社や徳間書店刊で公表している私独自の天の時、地の利、人の和のノウハウをあたかも自らが所属している派から伝承されたなどという虚言を弄してホームページや出版物に記載していたからにほかならず、著作権侵害というのは、このような場合を指すものです。
ちなみに陽暦換算の地の利の求め方は、中宮の九宮の定位にある八門の定位を先天卦に当てはめて下卦とし、使用する方位の先天卦を上卦として易卦を出すのですが、数換算した天干と地干の間の九宮の中宮の数の位置の先天卦で天の時をみる方法と併せて、私独自のノウハウです。
ところが、これを内藤のノウハウだとして、自らのホームページに諸葛流奇門遁甲をはじめ、私の著作から文章その他も部分的に丸写し転載していたのです。(勿論、引用表記もありません)
スワミ、デヴァ、サカが知り合い達に私のノウハウを秦王朝の秘伝として香港の陳恵なる人物から伝授されたと虚言を弄していたのも、もとはといえば、この内藤本の虚偽記載から思いついたもの、もし、陳恵なる人物から私のノウハウを伝授されたというならば、この陳という男が嘘をついているか、あるいは存在しない架空の人物かの二者択一しかありえないのです。
つまり、こういうことです。
香港の陳恵から、劉家成の名もスワミ、デヴァ、サカの名も頂戴している。
しかし、この劉家三元奇門遁甲は私(北条)のノウハウである。
ということは、陳恵から伝授されてはいないし、架空の人物の可能性がある。
ゆえに、陳恵から始まる一切は虚言となるということです。
云うなれば、スワミ、デヴァ、サカを、劉家三元奇門遁甲を作った本当の産みの親は内藤文穏の著書(東洋書院刊)での虚偽記載(徳間本のノウハウは内藤の盗作)が源といっても過言ではないということなのです。
こんな経緯から虚偽記載で内藤や東洋書院の処罰に向かった次第であり結果は先のQ&Aに書いた通りです。
後記
読者からのお便りです。
はじめまして、北条氏の歯切れのいい明快な回答、まさに、テレビ番組トリックの主人公をみる思いです。
私が好きなのは、あの決めゼリフ「おまえらのやってることは全部お見通しだ!」です。
これは、主人公がばったばったとインチキやトリックを見破ってゆく物語なのですが特に興味深かったのが、この物語の全編を通しての核である西日本の果てにある「黒門島の伝説」でした。
なんでも、「くろもんじま」と読むのではなく「こくもんとう」と読むその島には、120年に一度、現われる地があって、そこに宝が埋めてあるというのです。
でも、その伝説の島にあったものはというと、次の碑文が刻まれた男性器をかたどった石碑ひとつであったということです。
後世の者たちへ
宝は争いの元になるのですべて処分せしものなり。貧しくとも清く生きろ。
この言葉こそ真の宝なり
まさにインチキの原点、人を馬鹿にするのもいい加減にしろといいたいですよね。
勿論、この島も島民も架空の話ですが、この世にインチキやトリックがある限り、その聖地である黒門島やその島民がなくなることはないと思います。
私もいささか、いろんなところを回って勉強しましたが、矛盾が多く、それに応えてくれるところはありませんでした。
この度、Q&Aを拝見して、やっと疑問が氷解した思いです。
北条氏が前提とか論理的検証とかいっているのはまさにこのことで、この物語でいえば、「はじめにそれを云えよ」ということなのですね。
とにかく、事前確認が大事だということ、また、その視点等、大変、参考になりました。ありがとうございました。
頂戴した本は、 「超天才マジシャン山田奈緒子の全部まるっとお見通しだ」ワニブックスですので、興味のある方は一読されたらよいでしょう。
もし、この物語を現実のこととして検証するとすればここには二つの可能性しかありません。
一つは、本当に宝はあったが、文字通り処分した。
一つは、はじめから宝などなかった。
いずれにしろ、前提を中心に論理的に検証を重ねてさえいれば、自ずと答えはみえてくるものです。
「矛盾」という語源は、どんな盾も突き通す矛と、どんな矛でもはねかえす盾という売り口上に対して、「その矛でその盾をついたらどうなるんだい」という質問に窮して退散した商人の逸話から成っているものですが、このような商人は決して珍しい存在ではありません。
大半は盾や矛がどんな業績を残したかに終始し、その素材の良さ、製造の難しさを殊更に誇張し、いかに貴重かという方向に持ってゆくものですが、一般客にとってこんなことを検証するのは困難なことで、不可能に近いものです。
ところが、上記の検証だといとも簡単にその是非が判定できるのですから、こういう視点に立つことが、肝要です。
考古学で割れた土器の破片か否かを検証するのに必要なのは次の三つです。
- 破片がぴったり符合するか否か
- その素材が元の容器と同一であるか否か
- 破片の年代測定が一致するか否か
これらが一致すればその破片は欠けた部分であると判ります。
いつ、どこで、誰が、どのようにして持ってきたかは関係ありません。
純金の検証も同じです。
購入元でも、刻印でも、その経路でもなく、単に物理分析で瞬時に判明します。
すなわち、含有物や含有量が規定値に達してさえいればそれが純金(本物)です。
これに対して、分析を避け、その他の説明に終始するのが贋物の特徴といえます。
大切なことは、対象物が本物か否かの検証です。
奇門遁甲も同じです。
究極の原書とリンクするか否か、その整合性で瞬時に判明するものです。
そういった意味で、私の論理的検証や矛盾のポイントが、少しでもお役に立てたこと、幸甚の至りです。
また、御本、ありがとうございます。
この場を借りて篤く、御礼申し上げます。
Q48 立向と坐山、方位区分が違うのは何故? また、寅の蔵干の余気は己、戊どちらが本当? 2005/01/04
A 動と静の原理ゆえです。
個人なり団体なり、自らが動く場合に用いる立向盤では、一支30度を採りますから一支のみの東西南北は30度、二支を含むその他の四方位は60度の方位区分となります。
一方、坐山盤のように自らが動くことのない場合は、八方位等分(45度)の方位区分となります。
では、なぜ、二つの区分になるのかですが、それは、これらが、単に恣意的に決められているものではなく、原理に裏打ちされているからで、 原書である「煙波」の記載をみれば誰でもお判りになることです。
苦戦していた黄帝が夢でみたもの、それは、縦横いずれの列を足しても15となる九つの数の配列であり、気学でおなじみの九星(宮)盤です。
勿論、縦横の総和がいずれの列でも同数となる組み合わせ(俗に魔方陣といわれるもの)はこの他にも複数存在しますが、「15」となるものは、この盤しかなく、 この15こそが、上元、中元、下元の三元を表す意味のある数なのです。
その内訳は、60干支暦の 最小単位である「時」の60刻(5日)の三倍に拠っておりますから、その他の魔方陣では 何等の意味も持ちません。
そして、その三元(天地人とは別の意味)の基となるのが節気なのです。
ご承知のとおり、節気(節入り、中気をひとまとめで呼称)は陰遁、陽遁合わせて全部で24個あります。
真伝では、時同様に月にも該当する節気があり、その配置は一年を円で示していると同時に、各方位をも示しているわけです。
たとえば、子の方位には、大雪と冬至の二つが含まれておりますし、丑には、小寒と大寒が、寅には立春と雨水があり、他も同様です。
ところで、奇門遁甲では方位を八卦に分けておりますので、その名称は八つではありますが、北東、南東、南西、北西の宮には二つの支がある為、合計四つの節気がそれら一つの方位には含まれているというこになります。
つまり、節気は支に付随するものであり、それが方位の構成要素として存在していることを「煙波」では述べているのだから、この支(地支、12支)を基準にしないで方位を区分することはできないということです。
局数を採る場合に、立向では節気三元を干支列に応じて、細かくみてゆくのに対して、坐山は干支に関係なく大まかな三元(上中下元)のみに終始しているのはこの原理に拠るものです。
動、即ち、自らが動く場合は、支までが方位区分の対象となりますが、静、即ち、自らの動きがない場合は、八卦のみでよいので、立向は一支30度、坐山は八等分(八卦)の45度となるというのが本当の理屈です。
易では、動かない状態、静止状態では常に、八卦は等分のまま維持されておりますが、わずかでもそこに動きが生じますと節気を含む支の影響が発生するわけです。
古来から、北斗七星の動きで吉方位を採る対象が支になっているのは、これらの残像といえるでしょう。
ですから、発祥時の奇門遁甲の方位区分は立向は一支30度、坐山は等分の45度であり、すべて等分の45度というのは間違いです。
おそらく、後世の流派立ち上げ者の都合で方位は八卦に分ける、八卦は等分だ から、方位区分も45度だという単純な発想で創作された派生原書かその類によるものでしょう。
なお、支の蔵干については、原書等では概ね、以下の通りになっているものと思います。
子(壬癸) | 丑(癸辛己) | 寅(戊丙甲) | 卯(甲乙) | 辰(乙癸戊) | 巳(戊庚丙) |
午(丙己丁) | 未(丁乙己) | 申(己戊壬庚) | 酉(庚辛) | 戌(辛丁戊) | 亥(戊甲壬) |
これに対して、真伝では中気という概念がなく、また、すべてが連環しているのでこのようになります。
子(壬癸) | 丑(癸己) | 寅(己甲) | 卯(甲乙) | 辰(乙戊) | 巳(戊丙) |
午(丙丁) | 未(丁己) | 申(己庚) | 酉(庚辛) | 戌(辛戊) | 亥(戊壬) |
特に、違うところは寅の蔵干です。
原書というか偽伝では、前支の丑の本気である己と寅の余気である戊が繋がっていないのが判ると思います。
ここが、唯一の真伝との見分け方ですが、先のQ&Aでも述べたとおり、発祥時以来、私が公表するまでどこにも存在しないものですから、もし、どこかにあるとすれば、間違いなく盗用です。
蔵干と併せて、これら、原理に裏打ちされた理屈は中国は勿論、世界中どこにもなく、今、私が初めて公表したものです。
節気三元や、九宮の魔方陣を抜きにしては奇門遁甲は成立しませんから、この点に鑑みて判断してみてください。
Q49 陽暦換算のノウハウで、冬至、夏至が甲子日でない場合はどうするの? また、透派と真伝は同じなの?2005/01/17
A ニ至に近い甲か己の日を採ります。
陰暦換算と違って、陽暦換算では、実際の冬至、夏至を基準にした太陽暦に拠っているので、六十干支暦の甲子とこれらの二至が一致することは稀ですから、暦の初めを司る二つの干(甲己)の内、ニ至に最も近い干の日を暦上の冬至、夏至とします。
更に、これによって生じた実際の冬至、夏至とのズレのエアポケット期間では順逆が混在するので、この間の節気、九宮はすべて反転する仕組みです。
また、甲と己が基準になるのも、ひと月30日で括る真伝暦の仕組み上からで、一気三元(15日)の初日である各月の1日と16日の干が必ず、己、甲となる原理に拠るものです。
巷間では「超接」と呼ばれている陽暦換算にのみ発生するこのノウハウは昭和57年以降に初めて公表したもので徳間書店刊行の奇門遁甲や四柱推命等の暦でも採用しておりますので、周知の通りだと思います。
勿論、私の公表以前には世界中、どこにも存在しなかった理論ですから、遁甲、推命書の類は数あれど、一書たりとも、また、何人たりともこの理論を使用している人はいないと思いますが、万一、いた場合は盗作ですので、その相手先に支払った代金等があれば、全額返金を請求して下さい。
もし、応じなければ、その証拠を添えて、私宛に盗作者の住所氏名をお知らせ下さい。
私のほうで著作権侵害で提訴します。
私ごとで恐縮ですが、真伝と出会う昭和55年以前の20才の頃には、阿部泰山、佐藤六竜両氏の高弟から指導を請われていたこともあり、中国占術全体の研究者分布というものも概ね把握していたものですが、その当時は、私と同年代はおろか十歳上の研究者さえ全国には一人もおりませんでした。
しかも、大半が三十代後半以降で占められておりましたし、まして、一派を成すかのような人となると一気に五十代以降へとスリップしていたものです。
それは、私が徳間書店刊を上梓した昭和60年前後に至っても、この傾向は変わらず、この時点でも国内で同年代の研究者等がいた形跡はなかったものです。
ところが、どうしたわけか平成に入って、パソコン通信やインターネットが普及するようになった途端に突如として、数十年来の研究者と自称するものが続々と出てきたのには唯々、驚きました。
パソコン通信の頃には関西の人物が遁甲ソフトを無断で作成配布していた事実があり、本人も認めた経緯があったものですし、ネットになってからもそのような話は絶えることはありません。
もし、研究歴が事実なら、それを客観的に証明できる日付の改変不可能な20年なり30年前に著した公刊書のようなもの(自費出版なり、論文なり)があって然るべきですが、おそらく、お持ちの方はいないと思います。
そんなわけですから、少なくとも、1957年生の私と近い世代で研究歴が何十年ということはあり得ないことです。
至便な現代では書物の収集からそれらしくまとめる程度なら一年も根つめれば可能ですから、本当のところは、多くて四、五年というのがそれら自称者の実情ではないかと思います。
一般に、箔付けの為に研究歴を誇大表示することは、商策上の定石ですから、その慣習については、とやかくいうつもりはありませんが、他者の著作権を侵害しているとなるとこの限りではありません。
なお、透派については、あまり詳しいわけではありません。
前述しましたように佐藤六竜氏の高弟(司馬遼太郎氏の友人で公共施設の館長)から請われた若い頃に、同氏の修学した内容を披瀝されたことがあった程度です。
もとより、根源の書物以外、興味も関心もありませんし、真伝と出会ってからは、それさえも必要のないこととなって久しいものです。
確かに、透派は派生原書と比べる限り、源の原書に忠実とはいえると思いますが、真伝とは暦、判断の仕組み等、結果を伴う根本的なところで全く異なっておりますので、同じではありません。
とにかく、透派があって源の原書があるのではなく、源の原書があって、その後、透派がその一部を踏襲しているのですから、ここを間違えないようにしてください。
大体、透派を声高に非難している人に限って、その実は、バリバリの信奉者であることが多いもので、透派作盤の痕跡をうっかり消し忘れたまま書籍を刊行している人もいるようです。
また、立向、坐山の文字が煙波にないというのも間違いです。
もともと兵書が語源で、坐山については、孫子の兵法にある動かざる(坐する)こと、山の如しがそうで、煙波では、「天英坐取撃天蓬」と書いてあります。
これは、九星の直符が南(離宮)の場合、そこを拠点として、自らは動かないで、その反対の北を攻めろということで、坐山というのはこの山のように坐るの語句が簡略化されたものです。
また、立向の立は立営で、「九地潜蔵可立営」「伏兵但向太陰位」として、書いており、立営に向かうの語句が簡略化されたものです。
ちなみに、立営とは戦の準備を整える拠点づくりのことです。
そこへ向かう(動く)、すなわち、自らが赴いて戦を仕掛けるのが立向です。
立向(出征)の吉方を求める盤が立向盤、坐山(守征)の吉方を求める盤が坐山盤です。
従って、その意味も用法もすべて、源の原書である煙波には記述されておりますので、透派が存在しない盤や、はたまた、その名称を創作したものでないこと、お判りいただけたものと思います。
「孫子、呉子」としていたものが、「孫呉」となったからといって、疑問を呈する人がいないように、透派も、単に、立向、坐山と簡略に称しただけで、原書とその実態は何等、変わるものではありません。
ゆえに、遁甲に立向、坐山の二盤が存在することは、明々白々のことで、もとより、議論の余地すらないことなのです。
百歩譲って、それでも存在しないと主張する人がいたとしたら、このように質問してみてください。
それでは、一体、あなたは、奇門遁甲の何と言う盤を使用しているのでしょうか?
立向も坐山も煙波には存在しないといいながら、しっかり、立向盤だけは使っているのではないでしょうか?
記述されていないのならば、立向盤と称しての使用はできない筈ですし、坐山についても、過去にしっかり、使用し、その二盤の存在ありきで顧客に指導していたのではないのでしょうか?
また、煙波も透派も活盤奇門遁甲ですが、落ち着くところは活盤に終始しているのではないのでしょうか?
それで、透派云々というのは、論理的に矛盾だらけで整合性に著しく欠けているのではないでしょうか?
これで、結論がでる筈です。
是非、検証してみてください。
Q50 家具や備品を動かすだけで運気が変わるって本当?2005/05/01
A あり得ません。
遁甲に限らず、占術であれ、何であれ、そのようなことはありません。
似たような話は一杯あります。
一例を挙げると、昭和62年頃に、ある女性タレント(研究家)が地方のホテルで講演した内容がまさにそれでした。
占いと無縁と思っていた彼女でしたが、タイアップしていたんでしょうね、その中身たるや、終始、ある関西の女性占い師がいかに当たるかを得々と説いておりました。
「困りごとがあって、彼女に相談したら、机の位置が悪いので変更するように云われたのよ、そんなことで変わるはずないと思ってたんだけど試しにそうしたら、なんと、即日、解決したのよ。
また、体の調子が悪くなったときも、花瓶の取替えと水の取替えを指示されたのよ、
で、どうなったと思う?
なんと、替えたらよくなったのよ。
事業がうまくいかなくなったときも、絵を架け替えろっていうじゃない。
だからそのとおりにしたら、なんと、絶対無理だと思っていた取引がうまくいったのよ。
いい、皆、何々という名の占い師よ、よく覚えておいてね、何か困りごとがあったら相談するのよ、必ずよくなるわよ」
以上ですが、本当にそうなるのなら、大したものですが、事実か否かを検証できるような材料を用意していないのもこの手の話のお決まりのパターンであって、昔から、占い、宗教や老人を集めて布団や健康食品等を販売する団体等の常套の宣伝文句です。
事実、五、六年前には健康食品を販売する会場でこんな話があったことも人づてに聞いたことがあります。
それは、大阪の堺でO157が猛威をふるい死者まで出した事件があった時、罹患しなかった児童が一人だけいたそうで、その児童こそ、主催者の健康食品を食べていたということでした。
多くの人が、その話を聞いた途端にそそくさと会場を後にしたのは云うまでもありません。
ですから、仰せのようなことはありませんし、せいぜい、講演等の宣伝ネタとして利用するのが関の山でしょう。
具体的な事実を伴って行った人は過去一人もおりませんし、今後も以下の理由から、永久に登場することはないものと思います。
たとえば、誰かが、勢いで場当たり的な宣伝をしたとします。
すると、次には何が待っているでしょうか?
間違いなく、検証の要請です。
もし、後先、考えないで、倒産寸前の企業を立て直したとか、末期ガン等の難病を治した、治った等を謳ったりすると、真っ先にそれら企業や患者の所在の確認、検証に走られるのがオチです。
勿論、これらが、本当のことなら、これ以上の宣伝はありませんから、主催者は、率先してその所在なりを紹介するでしょうが、嘘の場合は、教えることができません。
バレたら、ただでは済まされないからです。
当然、毎日、苦情の山に追われることとなり、その信用が回復することは二度となく、永久に汚名を背負ってゆかねばなりませんから、一度きりのやり逃げ的な人ならともかく、まともな人がこのような愚かなことをするわけがないからです。
ですから、何を根拠にしても、単に家具や備品を移動するだけで、それらのような魔法がおこることはあり得ませんのでご安心ください。
これと手法が、よく似ているのが、テレビ等での「やらせ」です。
業界の宿命ともいうべき構造的なものですから、ある程度の範囲であれば止むを得ないものとは思いますが、NHKスペシャルのムスタン王国はその典型といえるでしょう。
これらの背景にあるものは、一にも二にもコストです。
考えてもみてください。
限られた予算と日数で、いつ降るかわからない雨や奇現象は勿論、都合のよい登場人物が揃うわけがありません。
重い機材を担いで過酷な環境に耐えながらじっとその瞬間を待つなんてこと自体が土台無理なのです。
とにかく、テレビ等の製作サイドの感覚というのは、一般常識と逆なのです。
つまり、事実があって、それを映像に置き換え、番組を制作するのではなく、初めにデスクトップ上でのシナリオがあって、それに符合する事実を構成するわけです。
厳密にいえば、これもフィクションでしょうが、ここまでは許される範囲とすべきでしょう。
でなければ、製作自体が不可能になってしまいます。
問題は、符合する事実が無かった場合に、タイムスケジュールに合わせるため、でっちあげを行ってでも、作品を完成させてしまうことが多々あるということにあるわけであり、こうやって作られた番組が「やらせ」で、問題なのです。
そして、その「やらせ」が出演者の事業内容等、利益に直結する場合は、深刻です。
それは、公器を使って虚偽事実を流布し、視聴者の利害を左右しようという試みですから、この場合は、許されるものではありません。
但し、通常の「やらせ」というものは人畜無害の娯楽の為の潤滑油ですから、目を細めて云々するほどのものでもありませんし、その前に、視聴者はそれほど馬鹿ではありません。
すぐに見抜きます。
ですから、仮に詐欺的な「やらせ」があったとしても、引っかかる人は殆どいない筈です。
ですから、テレビ番組というのは、予め、こういうものであることを知って楽しめばよいのですし、大いに楽しんでください。
私も、東証一部の一割程度の銘柄(リーディングカンパニー)は保有しておりますので、 日テレやテレ朝等も株主ですが、株主利益に貢献を願う半面、人の利害に関わるような情報においての「やらせ」があった場合は企業の信用を低下させ、最終的には、株主利益を大きく毀損することにもなりかねませんので、そこら辺の線引きというか節度は必要と思っておりますものの、既に述べたとおり、留意するほどのことでもないでしょう。
とにかく、このような手法(嘘、やらせ)自体は手を変え、品を変え、舞台を変えてパワーアップして、何度も出てくるとは思いますが、その構造は至ってシンプルで昔と何等、変わっておりませんので、そのような者に出くわしたときは、クールダウンして、次の方法で検証してください。
たとえば、末期ガンが治ったといえば、病院での証明書を提出してもらってください。
他人が聞いても回答も提出もしてくれませんが、本人なら発行してくれる筈ですし、本当のことなら、率先して取り寄せてくれる筈です。
また、企業や個人が対象になっている場合は、その所在を教えてもらってください。
テレビ等の場合、出演者についてはNGになっていることが多く、局に問い合わせても回答してもらえないことがあると思いますが、その場合でも、主催の当事者なら、先に述べた理由から、率先して教えてくれる筈です。
こうすれば、誰でも簡単に、その真偽を見極めることができますので、そのような事例があった場合は、是非、お役立てください。
Q51 遁甲の局数は、初め、四千三百二十局あったって本当?2005/05/30
A ありません。
初めから、遁甲の局数は十八しかありませんし、また、遁甲の盤も一千八十しかありません。
どうやら、「煙波」を誤訳しているようなので、この際、正しい解釈を挙げておきますので、参照して下さい。
まず、局数の変遷ですが、「一千八百当時制 太公測為七十二 逮於漢代張子房 一十八局精芸」との記述を、黄帝の頃には、一千八十(百は誤記)あった局数を、太公望が七十二局に改良し、更に、張子房が十八局に改良したと解釈していることが原因のようですが、これはそのように読むのではありません。
勿論、原書等によって若干の文字の差異はありますが、しかしながら、一千八十や、七十二を局数と書いてあるものはありませんし、すべて、その内容は大同小異となっている筈です。
つまり、局と書いてあるのは、十八の数のみであり、その他の数は局数を指しているのではありません。
これは、黄帝から太公望を経て、張子房に、この術が伝わったことを書いているだけで、正しい訳は以下の通りです。
「黄帝が授かった遁甲盤は一千八十個からなっており、その後、太公望に伝わったこの術は、一元の総数七十二、つまり、三元の原理を使って、漢の時代に張子房に伝授された。
また、局数は陰陽の理にかなった九局ずつの計十八局となっている」と読みます。
張良(張子房)が、黄石公から計十五日間(五日毎の計三回の呼び出し)で伝授されたくだりは、まさに、このことです。
そもそも、一千八十という数は、遁甲の時盤の総数ですから、初めに、陰陽合わせた計十八局がなければ、この数自体を求めることができないのですから、このような解釈自体、前提からしてナンセンス以外の何ものでもありません。
つまり、一局に対応する干支の総数が六十、それが九局で、五百四十、更に、陰陽二つの十八局で、二倍となりますので、一千八十という数が求められるというわけです。
だから、これを、親子にたとえると、十八局が親、一千八十という数は、そこから産まれた子供といえますので、もし、局数が変遷したなどという解釈をしてしまうと、親より先に子供が産まれたという、あり得ないパラドックスになってしまうことからもお判りいただけるものと存じます。
つまり、黄帝が天神より、授かった一千八十の奇門遁甲盤で功績を成したとしているのに、それを求める為に必要不可欠な十八の局数が、ずっと後の漢代に成立したとすれば、黄帝も、太公望も、黄石公の存在も、逸話も、一切を否定しなければならないばかりか、張良は十八局に改変したというわけですから、一千八十も、七十二も彼の術とは一切、無関係な数字となってしまいます。
ということは、結局、これで判断できるものといえば、現代の気学以外、あり得ません。
気学の創始者としたいのなら、ともかく、それでは、なぜ、八門、八神、天干、地干等の求め方が煙波には記載されているのでしょうか?
しかも、これらは、すべて、一千八十の盤や、節気三元の七十二がなければ、十八局のみのデータで求めることは不可能にも関らずです。
従って、その場合は、これらの記述は不要ですし、他方、張子房を遁甲の創始者としたいのなら、煙波の著者は、あえて、こんな面倒な細工などする必要がありません。
つまり、箔付けの為なら、次のように書けばよいだけです。
天神より伝授されたこの術で黄帝は功績を挙げ、その後、太公望を経て、張子房に伝わり、皆、功績を挙げた。
本書は、張子房のノウハウを書き記したものであると....。
ゆえに、奇門遁甲の局数は十八を超えるものではありませんし、その盤も一千八十を超えるものでもないことお判りいただけたものと存じます。
四千三百二十なる数というのは、局数ではなく、遁甲盤の数の違いのことを勘違いされているものと思います。
一刻単位で盤が異なることから、一年の総時刻数を計算すると、この数になるということを根拠にしているようですが、残念ながら、この論理は成立致しません。
奇門遁甲では、あくまでも、それらも含めて、一千八十の盤が割り振られているにすぎないからです。
もし、どうしても、これにこだわるのなら、時刻数ばかりではなく、日や月や年や、はたまた、世運会元の単位まで対象にしなければ、論理上の矛盾を生じてしまいます。
これらも差異があるからです。
当然、遁甲盤の数は無限大の差異を生ずることとなり、これでゆく限り、最早、四千三百二十なんていう数では到底、納まらなくなってしまいます。
また、百歩譲って、これらを局数とすれば、一体、どうやって作盤するのでしょうか?
煙波には、十八局の一千八十盤を求めるノウハウしか書いておりませんので、新しく創作しなければ不可能です。
その点でも、前提からして、土台無理な話といえるでしょう。
勿論、黄帝が一刻毎に「一局」を設けていたなどという記述がないことは云うまでもないことです。
次に「次将八卦分八節」と「一気統三為正宗」について述べます。
巷間では、方位区分を述べているものとし、八方位等分の四十五度の根拠としているようですが、これも、間違いであり、そのように読むのではありません。
これらは、立向時盤の局数の定め方を書いているのであって、正しくは以下の通りです。
洛書の九宮盤の定位の八卦に、グループ化した三つの節気をそれぞれ、対応させて、その数を基に、時盤の局数を定めなさいと書いてあるのです。
わかりやすく説明すると、冬至、小寒、大寒は、坎宮に対応させるので、定位の九宮である1の数を筆頭の冬至に置いて、順に、小寒には2の数を、大寒には3の数を基準とします。
同様に、立春、雨水、啓蟄は、艮宮に対応させるので、定位の九宮である8の数を筆頭の立春に置いて、順に、雨水には9の数を、啓蟄には1の数を基準とします。
要するに、陽遁の節気は常に筆頭の数が決まったら、そこから順に増数してゆけばよいわけです。
陰遁は逆に、単に筆頭の数から減数して配置すればよく、夏至、小暑、大暑は、離宮に対応させるので、定位の九宮である9の数を筆頭の夏至に置いて、順に、小暑には8の数を、大暑には7の数を基準とするいう具合で、以下、同様にして、陽局、陰局共、各節気毎の上限の甲子旬十刻(十干支)の局数の定め方を書いているというわけです。
仰せの、「局数の求め方だとしても、八卦の各宮に三つの節気を入れることが正しいと書いているのなら、、方位区分もこれでみるのではないか」とのことですが、この場合の節気の割り振りはあくまでも、局数と対応させるものであって、方位区分のものではありません。
その根拠は、先のQ&Aでも申し上げた通り、節気、すなわち、節入と中気の二つは、月支という十二支のみに含まれるものだからで、更に、その十二支も、八卦に含まれる、云わば、変更不可の構成要素だからです。
仮に、坎宮に冬至、小寒、大寒の三つの節気を入れるとすると、その構成要素である十二支は「子」となりますが、子に含まれている節気は大雪と冬至の陰陽を隔てた二つですから、これには当てはまりません。
震(卯)、離(午)、兌(酉)も同様です。
他方、艮(丑寅)、巽(辰巳)、坤(未申)、乾(戌亥)も、四つの節気で構成されておりますので、これまた、八卦それぞれに、均等に節気を割り当てることはできないのです。
ゆえに、遁甲は勿論、推命等、干支、節気をその原理に据えている中国占術のコアスキルの根底を、その前提から瓦解させてしまうようなことを、その術に精通している煙波の著者が書くわけがないということです。
あくまでも、この文は、方位の区分を説いたものではなく、局数を求める為の基準の数を、それぞれ、三節気ずつ八卦の宮と対応させて、定めなさいと書いているわけで、これが正しい解釈なのです。
このように正しくみてさえゆけば、「煙波」というものは特段、難しいことを書いてあるものでもなく、皆さんがよくご存知の立向時盤の作成と、その判断の仕方をごく普通に、順を追って説明してあるだけであることがお判りいただけると思います。
不可解な表記となるとすれば、それは、単に誤訳しているだけということです。
おさらいを兼ねて、説明しますと、五を中宮においた九宮盤の後に、八卦分八節とあるのは、その定位の数を対応させる為にその前に書いているわけです。
従って、この後の、陰陽二遁分順逆から、陰陽逆儀奇順行までの文はすべて、立向時盤の作り方についての説明となっているだけです。
また、「一気統三」と「一気三元」は巷間では同じ意味としておりますが、これは、間違いで、前者は、既に説明したとおり、三節気を一つの単位として基準数を求める際の説明を、後者は、文字通り、一節気は上中下元の三元で構成されているという意味です。
節気は、ひと月(三十日)に、二つあるので、一つの節気は、その半分の十五日となります。
それが三つあるのですから、一元は五日となるのです。
「五日都来接一元」は、この三元の内訳であって、この単位で各節気間と六十干支の交点を時盤局数が循環するということを書いているわけです。
先に求めた甲子旬の十刻の基準の局数は、この三元の上元の十刻となっており、ここから、陽遁は順に、陰遁は逆に配置してゆけば、時盤の局数をすべて埋めることができる仕組みとなっております。
ですから、五黄中宮盤と、六十干支と、二十四節気の三つさえ覚えておけば、いつでも時盤局数表を作成することができるというわけです。
後は、こうして割り当てた局数を、局数の基準となった十刻単位で変えればよいだけで、「十時一易堪憑据」というのは、このことを書いております。
仰せの、「符上之門為値使 十時一易堪憑据」を一文とするのではとの件ですが、この二つは別の文ですから、そのようには読みませんし、仮に、百歩譲って一文としても、これは十時一局を説いているものですから、どのように解釈しても、そのようにはなりません。
つまり、十時一易が、一往、一位、いずれに変わったとしても、時盤の局数は十刻毎に変わるという解釈に変わりはないということです。
一応、前者は、八門の直使の求め方を説いてあるだけですが、仮に、これを、六儀が十刻毎に変わることを説いているものとしたら、何がどう、変わるというのでしょうか?
むしろ、より、十時一局の根拠を後押しするのではないでしょうか?
六儀は奇門遁甲そのものといえるくらい、重要な要素です。
六儀がなければ、遁甲の名も、盤も作ることができません。
その六儀が十刻単位で変わるというのですから、どうして、そこから、記述もしていない六十時一局へと飛躍するのか判りません。
それとも、十時一易または、一位、一往の解釈が間違っているのでしょうか?
間違っていないのなら、これで、十時一局か否かについては完結しているのではないでしょうか?
既にご説明した通り、局数はすべて甲子旬の十刻に割り当てた基準の数から定めており、坐山盤とて例外ではありません。
どこを、どうみても、煙波には、五日一元を局とするなどと書いているところはありません。
あくまでも、書いているのは立向時盤の局数のみです。
参考までに申し上げますが、坐山時盤を五日一局とするのは、自らが動かない「静」の場合は、六十干支の「支」の影響を受けないので、自動的に節気三元のみでみることとなる為、結果として、六十時一局と判断しているだけであって、三元の一元が坐山時盤の局の単位だなどとはどこにも書いていないことに鑑みてくださればお判りいただけるものと思います。
そもそも、「五日都来接一元」は、あくまでも立向時盤の局数を求める過程で必要な三元の説明であって、それ以上でも以下でもないのです。
もし、五日一元を局とするのならば、その後に十時一易などの記述をするわけがありません。
つまり、初めに五日を一局とすると書いておいて、その後に十刻を一局とすると書いたりする著者はいないということです。
それに、立向を、六十時一局とすると、その間に、六回も干門星神という遁甲盤の判断の要となる要素が変わることになります。
局数が一定なら、六儀も六十刻単位で変わるようにしなければ筋がとおりませんし、これでは一儀となって、遁甲の組成そのものが瓦解してしまいます。
このことからも、局数と六儀が対応して変化してゆく、十時一易が正しいことがお判りいただけたものと思います。
いずれにしても、派生原書を一切、取り止め、「煙波」に回帰したということは、非常によいことだと思いますが、肝心の訳が間違いだらけであっては却って始末の悪いものとなります。
この点に、ご留意の上、研鑽して下さい。
自ずと正邪がみえてくる筈です。
Q52 内藤文穏とは関わりがあるの?2005/09/12
A 一切、ありません
北海道札幌市にお住まいの大島さんという読者からネット等で内藤文穏が喧伝しているようだが、事実か否かとのお尋ねがありました。
そこで、大島さんには、私のページのQ&Aをお読みになることをお奨めした上で、内藤とは一面識もない赤の他人であることを申し上げ、更に、念の為、内藤文穏本人に直接、その真偽を確認するよう求めました。
内藤からは、一面識もない赤の他人であるとの回答がきましたが、まだ、私(北条)から過去に手紙を貰ったとか、著作権侵害をしているなどと往生際の悪い嘘をついておりましたので、改めて、侵害は勿論、コンタクトをとったことも一切ないので、再度、内藤に確認を求めるよう大島さんに指示しましたところ、一切は、虚言であったことを内藤が認めましたので、ここにお知らせしておきます。
このように、疑問等があれば、ダイレクトに検証を行うのが私の流儀です。
こうすれば、瞬時に真偽、黒白がつき、非常にすっきりしますので、おありの方は出所を添えて申し出てください。
尤も、先にQ&Aをお読みになっていれば、今回の質疑も発生しないものではありましたが、今後の為にも、先に述べた武田と併せて、後に私が彼等の代理から聞いた話も、この際、補足しておきますので参照してください。
いずれも、構図は酷似しており、以下はそのやりとりの要約です。
代理 | 著作権侵害の箇所は? |
---|---|
内藤、武田 | .............................................。 |
代理 | 他に何か問題あるのか? |
内藤、武田 | 北条が悪口をいっている。 |
代理 | それは学説批判だよ。 その為の出典表記も明示している、何等、法的には問題ない。 |
内藤、武田 | .............................................。 |
代理 | 北条の学説批判は間違っているのか? |
内藤、武田 | .............................................。 |
代理 | 根拠を明示した批判は正当な行為だからもし、反論があるなら、こちらも、学説批判で返したらよいではないか? |
内藤、武田 | .............................................。 |
代理 | 著作権侵害もない、学説批判も正しい、では、それで、何をしろというんだ? |
内藤、武田 | とにかく、商売の邪魔なんだ、何とかしてほしい。 |
代理 | じゃ、嫌がらせをやれというのか? |
内藤、武田 | それで上手くゆくかもしれないので。 |
代理 | 気乗りはしないが、一度だけだよ、下手すりゃ、懲戒ものだからね。 |
内藤、武田 | 弁護士名で内容証明出してさえくれれば、これを利用して、面子が保てるのでそれで構わない。 |
結果は41番のQ&Aで述べた通りです。
内藤、武田共、再び、私(北条)に迷惑をかけることはしないとのことで、代わりに商売を継続させてやってくれとの代理からの要請があったことを受けて、私も彼等に温情をかけたものです。
従って、その後、武田が、奇門遁甲学入門などでとやかく書いてあるとのことを聞いても、許容範囲内としておりますし、煙波の誤訳に至っては、その指摘もあえてしなかったものです。
なぜなら、これは、絵画で云えば、収蔵家が「最後の晩餐」の本物を自宅に保管してあるというようなもので、致命的なものであるからです。
本当のことを知らない人たちにはそれで通用するものでもあり得ないことはあり得ないわけです。
どういうことかというと、最後の晩餐は壁画だから、流動資産ではないということです。
もし、それを押し通そうとすると、その人は、本物を知らないということになり、遁甲においてもこれと似たようなケースは巷間にあふれております。
最近、一部、披瀝したのも本場で最後の晩餐を所蔵しているとか、そこから譲ってもらったとかのグループから間違った前提での説明を受けた人からの質疑等があって、やむなく、正しい訳を公表したからにほかなりません。
そんなわけで、武田も生前中に迷惑行為に及ぶことはついぞありませんでした。
ところが、他界を境に、同氏の妻である土屋照子氏がベンチャーリンクという企業を通して、虚偽虚言を発信しておりましたことを知るに及び、同社の川内さんという弁護士に確認を求めましたところ、最終的に土屋照子氏が虚言を弄していたことを認めて、一応、一件落着となっている次第です。
当初、土屋照子氏は、次の三つのことを主張しておりました
- 武田の著作権を侵害している
- 提訴をした(裁判になった)
- 土屋照子氏に土下座をした
そこで、川内さんには、土屋氏に次の点の確認をするよう求めました。
- その箇所を明示せよ
- 裁判所名とその時期を明示せよ(事実なら記録がある)
- 会ったことはない、照子氏が一番知っていること、(その日付が判明すれば立証可能)
結果は三件すべて嘘だったことを認めました。
ここまでくると、怒りを通り越すレベルですが、私にはどうしても理解できない不可解なことが一点ありました。
それは、会っていないことは双方事実だから異議なしだったのが、なぜ、彼女は見てきたかのようなストーリーを組み立てたのかということです。
誰か、彼女に吹き込むものがいるのか、いたのか、それともすべては、確信犯だったのかということです。
その真実は、判りませんが、この件を考えるにつけ、そういえばよく似た事例が芸能界であったのを思い出しました。
それは、随分以前に、ある俳優に暴行されたとして公務員の男性が提訴をするという事件でした。
結局、結論は、客観的なアリバイがあったことから、俳優は無関係であるということで一件落着となったわけですが、興味深かったのは、その事件の内容ではなく、いかに思い込みというものが怖いかということでした。
整理すると、暴行された公務員男性の根拠は、次の三つです。
- 記憶から俳優によく似ていた
- 直接、会いに行ったとき、俳優が狼狽しており、指が震えていた
- 明日、調布で仕事があるといっており、俳優の撮影場所と一致している
唯、常識で考えると、いずれも根拠とするには無理があることばかりです。
- 結論から説いてゆくと、本当は、他人の空似というか、どこか特徴が似ていたもので、真犯人とそっくりではなかったものでしょう。
- おそらく、思い込みで怒り満面の公務員の出現は俳優にとって想定外のことで、瞬時に状況を理解できず、ちょっと危険な人物と写ったことから震えたものでしょう。
- 調布での仕事は撮影所と特定できるものではなく、偶然の一致だったのでしょう。
唯、この公務員は俳優に似ている犯人から暴行されたというわけだから、思い込みとはいえ、犯人とは直接、会っているわけですが、土屋照子氏の場合は、会ってもいないのに、会っているとして、虚言を振りまいたのですから、論外です......。
なにはともあれ、商売の邪魔か否かを物差しにして事を運ぼうとすることはどんな分野でも許されるものではありません
あくまでも、正しいか否かの物差しで事を運ぶべきです。
私は、終始一貫してこの物差しに合わせて参りましたし、これが私の理念です。
Q&Aに書いてあることは、そういうわけで全て事実ですから、まず、こちらをお読みください。
ほとんどの疑問はこれで氷解いたします。
Q53 劉伯温の奇門遁甲って真伝?2005/12/07
A 違います。
劉伯温は明代の人物で、巷間では奇門遁甲天書、地書や滴天髄の著者として知られておりますが、実のところ、そのいずれも劉伯温が書いたものではありません。
後世の易者占い師が箔づけや商売上の都合で劉伯温著としたもので、現在、原書の類といわれている本の大半が中国で占いが最もブームになったこの明代に作られたものであり、諸葛孔明著とされているものも例外ではありません。
従って、これらは絵画でいえば贋作といえますが、もとより劉伯温自身が書いたものも存在しないのですから、さしずめ、著者不詳のゴーストライター本といえるでしょう。
日本にも、義経をジンギスカンとする立派な偽書がありますがこれと同じくらい、中国では常識となっていることですから、真著だと主張される方がおられるなら、再度、確認してみてください。
上記の通りだとお認めになる筈です。
そもそも、「原書」というものは、孫子や呉子に代表される兵書をみても判る通り、源ですから、一つしか存在しないものです。
当然、写し(コピー)や翻訳本の内容は原書と同一でなければなりません。
にも拘わらず、一つの占法に対して複数の原書があるということは、どこかで誰かが間違った行為をしたことにほかなりません。
それが、韓国、台湾、香港等に数多くあるということは、明本を基にした粗製濫造の原書がここで創作されたということです。
だから、真伝を標榜するなら、最低限、原型となった原書とのリンクは勿論、暦その他についても矛盾があってはいけないのですが、方位区分一つとってもその前提から瓦解しておりますので、劉伯温云々以前の問題です。
調べれば、その大半が明本どころか、戦後のしかも極めて最近に作られたものばかりであることが判る筈です。
では、何故、このようなことをするのかというと、黄帝から孔明に伝わった兵法指南書と違って、新たに開業して弟子を集めるだけが目的の占い師にとって、偽の原書作りは不可欠なことだからです。
中国では明代以降からこの傾向が始まり、戦後になって、それは、更に拍車を増し、バブル景気を迎えた大口顧客の日本向けにどんどん、新作を作り出しては商売(生活)の糧にしてきた経緯があります。
従って、中国政府では、占い産業を公式には認めておりませんし、それらの書物についても確たる信など持っておりません。
では、どのような位置付けかというと、がまの油の効用程度です。
つまり、ちょっと塗るだけで万病、難病、たちどころに治るという謳い文句、口上で祭りの縁日などにみかけるあれです。
売っている物も人体に無害なただの市販の軟膏ですから危険性もないことから、商品云々ではなく、一種の話芸ということで容認しているわけです。
そこら辺のところは、かつて、天中殺で一世を風靡した和泉宗章氏の「占い告発 読売新聞社刊」という本に詳述してありますので、こちらをお読みいただければ疑問は氷解します。
そんなわけで、昭和57年前後ですら、中国ではこのような状態なのです。
従って、これ以後に、そのような権威があろうはずもなければ、新たな原書も出てくるわけがないのです。
仰せの原書の大半はすべてこれ以降に登場したものであり、新説に至っては、極めて最近になって不純な動機を持つものが作り出したものです。
なお、あなたと同様の趣旨をお持ちであった方から、劉伯温を云々する人に質問したやりとりのもようが寄せられておりますので紹介しておきます。
ご覧になれば、氷解すると思います。
読者 | 劉伯温のお弟子さんですか? |
---|---|
主張者 | その子孫から直伝を受けました。 |
読者 | 坐山盤は存在しないんでしょうか? |
主張者 | はい、多くの書物には書いてないんです。 |
読者 | 劉伯温著の奇門遁甲天書や地書には坐山が書いてあるのでは? |
主張者 | 滴天髄も天書も地書も劉伯温の真著ではないのです。 |
読者 | えっ、では、劉伯温が書いてないんですか? |
主張者 | そうです。 |
読者 | じゃ、滴天髄も天書も地書も劉伯温とは無関係ですか? |
主張者 | はい。 |
読者 | それでは、劉伯温の真著はあるのでしょうか? |
主張者 | 公刊書ではありませんが秘伝としてきた口伝を子孫が継承しており、その直伝を受けております。 |
読者 | では、その口伝を紹介、使用しているのですね? |
主張者 | いえ、劉氏の方法は採用しておりません。 あくまで、私の研究成果を使っております。 |
読者 | 劉氏の子孫の方法では当たらないのでしょうか? |
主張者 | .......................。 |
読者 | 劉伯温の子孫って本当にいるのですか? |
主張者 | .......................。 |
劉伯温の子孫がいるとは思えませんが、仮に百歩譲って、いたとしても、劉伯温著とされている書物と無関係では話になりません。
よく考えてみてください。
劉伯温の子孫ということを謳い文句に占い商売をしているとしたら、誰しも、滴天髄、奇門遁甲天書、地書の著者との繋がりがあるものと思ってしまいます。
そして、あの内容は勿論、それ以外に秘伝等があるのではないかと、そして、それが子孫に伝わっているのではないかと思いを巡らすのが普通です。
ところが、これらの書物と劉伯温とは関係がないとしたら、仮に、劉伯温の子孫だったとしても、その者が奇門遁甲や四柱推命に代表される五術(山命医卜相)を継承しているという証左がどこにあるのかということです。
はっきりいえば、本人が主張しているだけで、煙波ともリンクしない原理的矛盾等に鑑みると、本人が創作しているだけと思われても仕方ないことです。
それに、奇門遁甲も四柱推命も、明代に発祥したのではなくその原型は、遥か以前にあったものです。
ということは、劉伯温の真伝?は当然、それらとリンクし、その原理においても矛盾のないものでないといけないわけですが、果たしてそのようになっているでしょうか?
でなければ、奇門遁甲の名を冠することすら許されないことです。
また、継承というのは、原則一人にのみ行うものですし、それは、多分に縁が深くかかわってくるものですから、前任者の余命に余裕がある間に行われることはまず、ないものです。
黄石公も、諸葛孔明も余命なき時に執り行われております。
密教でも、恵果は多数の弟子をさしおいて、空海に伝授いたしましたが、このときも余命いくばくもないときです。
そして、私が伝授されたときも先代の余命はいくばくもなく二年ほどで他界されました。
にも拘わらず、余命に余裕がある段階で、伝授を乱発している人に本物があるわけがありません。
ここら辺もよく調べてみてください。
余談ですが、子孫のみに伝わるということならば、継承者はすべてその始祖である黄帝の子孫で構成されていなければなりませんが、ご承知の通り、歴代の継承者に血縁関係はありません。
たとえば、黄石公は太公望の子孫ではありませんし、張良も黄石公の子孫ではありません。
勿論、孔明もこれら歴代の継承者の子孫ではありません。
むしろ、真伝は前任の子孫には伝わらないと考えたほうがよいでしょう。
同族会社に未来はないのと同様、大切なことは、会社を維持してゆける能力こそが問われるものだからです。
それは、孔明の子孫であっても、同じことです。
既に、孔明の一族から離れているのですから.....。
もっとも、十代遡れば日本の誰とでも親戚関係ができているわけであり、更に百代遡れば地球上の人類すべてと親戚関係ができているわけですから、実のところ「血縁」そのものにはもとより、意味がないことではありますが......。
継承というものは、このように陸上のバトンリレー、駅伝のたすき渡しのようなもので行われます。
資格というものがあるなら、それは唯一つ、その区間を守りきれる人、確実に次の走者へ真伝のたすきが渡せる人であるか否かのみです。
ゆえに、先代との約束が守れる人でなければならず、間違っても不純な動機を持つような人に伝わることはありません。
Q54 月星がヤフオクに出てるけど容認してるの?2006/03/27
A しておりません。
ここ数年、このような話が舞い込むことが多くなりました。
最近も東京の清水さんが長野の出品者が出していたとの書信頂戴しましたし、その前には岐阜の安藤さんからも同様です。
勿論、容認しているわけではありませんので、探してみるのですが、そのときはヤフーのサイトからは削除されている状況といった具合です。
ですから、このような例をみかけたら中途半端な情報ではなく、落札して出品者を特定してくださいとお願いしておきました次第です。
実は、昨年、東京神田の原書房からあろうことか月星をネットで販売し、完了したのを発見し、この件に関しては、正式に警察に盗難被害届けを受理してもらっております。
同書店から流れたものではないかと思いますし、犯人もまだ捕まっておりませんが、再度、非売品が流通するようになれば、自ずと明らかになってゆくものと思います。
原書房とのやりとりです。
私 | 買取リストを開示してください |
---|---|
原 | まとめて買い取ったものだから、個別にはリストに記していない |
私 | その相手先を開示してください |
原 | 実はリストに記入していないで買い取った |
私 | 古物営業法で義務ですが...。 |
原 | 書籍はこの範疇に入らない |
私 | 奥付に非売の文言があったでしょう |
原 | 見ていない |
私 | 見ていないのにどうして発行年が判るのか |
原 | 見ていたとしてもそれは、顧客と私との約束であって古書店が拘束されるものではない。但し今後はしない |
以上ですが、勿論、あり得ない言い訳です。
とにかく、専門書というのは、頒布価格で顧客に売り渡している商品(書籍)ではなく、条件付で貸与しているだけのものですから、所有権が移転していないローン付のマンションみたいなものです。
つまり、数億するマンションを数十万の頭金のみで、誓約遵守の条件さえのめば一生、占有使用できるようにしているようなものです。
でなければ、このような破格の頒布価格をおつけすることはありません。
ゆえに、これを所有権のない使用者が転売しているような今回の一件を容認してないことは云うまでもありません。
この意味で警告を奥付に記載し、仮に古書店等に持ち込まれてもここで、しっかりとストップできるようにしておいた筈が、これでは、古物営業法の許可云々の問題ですし、それ以前に商道のモラルが欠如しているとしかいいようがありません。
なお、集大成にもこれらの懸念があるのではとのことですが、この点については、心配には及びません。
なぜなら、これは新たな企画ではなく、あくまでも、これら専門書(テキスト)の購入者向けのサービスであって、実は頒布の前にこれらの任意のページを提示してもらうようになっております。
もし、譲渡、転売をしていたなら、ここではじかれますので遵守されてない方に渡ることはありません。
どうかご安心ください。
また、仰せのネット等でも陽暦換算、陰暦換算のノウハウを用いて無断使用している者がいるかも知れませんが、いずれにしろ、暦から算出される干支、九宮、節気等のデータは真伝唯一のものですから決して隠すことはできません。
ですから、著作権侵害があれば、直ちに判明しますので、そのような事例があれば、お知らせください。
かつて紫音飛星丸氏が使用していたときも、この暦からのデータで判明したわけですし、同氏にはその後、不正者がいないか監視するよう申し出ておりますので、そのような者がいれば、遠からず同氏からも連絡があると思います。
とにかく、私の著作に拠るものは、どこまでいっても、その土台となる「真伝暦」をベースに構築されておりますから、そこから求めたデータを羅列した時点で逃れられない痕跡を残しますので、賢明な方はしないと思います。
プログラムについても、黙認しているわけではなく、私自身が確認する機会がないだけです。
いずれ、確認できるときがくると思いますので、そのときに一切合財、まとめて、処理しようと思ってる次第です。
Q55 素人の遁甲研究者へのミス指摘はいじめでは?2006/04/27
A 心当たりがありません
仰せの件は「煙波」の解釈のようですが、そのまえにお断りしておきます。
私共は特定の人物を対象に意見を述べているのではなく、あくまでも一般からのご質問に対して、率直に正しい回答を差し上げているわけであり、それをこのコーナーでも広くお知らせしているにすぎません。
ですから、その内容が特定の人物に触れているものであった場合は、付随的に対象とした回答となってしまうことは致し方ありませんが、それが、この度、あなたが仰る宮崎県の男とどのような関係があるのか今ひとつ、判りませんし、私共もそのような人物のことは一切、存じ上げておりません。
もとより、私の回答はすべて、学説批判の域を超えるものでないことは云うまでもなく、又、間違った情報発信を受けたご質問に関しては、ダイレクトに検証の上、お答えしてしているわけですから、もし、これで、不都合な立場になる者がいたとしたら、それは、とりもなおさず、その対象者こそが、「不正」を働いていることの証左に他ならないということです。
それとも、ひょっとして、これまで寄せられたご質問の大半はこの人物もしくは、関係者によるものだったのでしょうか?
だとすると、合点がゆきますが、何はともあれ、単に宮崎県の男、奇門遁甲の素人研究者というだけで、住所も氏名もその他、何等、特定すべき具体的なデータも開示しないで、そのようなことを仰られてもこちらとしましても対応のしようがありません。
ですから、もし、そのような人物が実在するなら、そして、あなたがお知り合い、あるいは、お仲間ならば、このような煮え切らない態度はお止めになって、直接、私共に書信を寄越すようお伝えください。
どこが間違いか指摘してこのページで発表してあげます。
私共も素人相手に大人げないことをする気持ちは毛頭ありませんが、果たして、その人物は「素人」を前置詞においてわきまえた行動、言動をとっておられますか?
そうではなく、嘘、でたらめの解釈をし、それが真実と主張しているのではありませんか?
そして、その先にこれまた、嘘、でたらめの自称研究者を担いでいるのではありませんか?
というより、これを担ぐために嘘、でたらめを流布しているのが本当のところでしょう。
言論の自由といえども、私が右と云っているものを、どこかで誰かが左と云い、それが真実だと主張するなら、それは、私が嘘を云っているということになり、その逆も然りです。
だからこそ、冒頭で申し上げた検証の上の学説批判で黒白をつけているわけです。
しかも、その宮崎の男が担いでいる自称研究者はかつて私の専門書を見たとして批判を繰り返しておりましたことをご存知でしょうか?
これは、大変な事件なのです。
つまり、非購入者であるこの男はどのようにして、入手不可のテキストを見ることができたのかという問題を孕んでいるからで、その答えは三つしかありません。
一つは、盗んだ
一つは、盗んだ者から入手した
一つは、誓約を破った購入者から入手した
いずれにしても、まともな人間なら絶対にやらない行為です。
従って、この一事だけで、まともな人間はこの男を推挙も支持もしないものです。
ですから「素人への大人気ないいじめ」などの泣き言を云う前に、宮崎の男には総括しなければならないことがおありになるのではないでしょうか?
この際だから申し上げますが、当ページを立ち上げて間もない頃、一通の書信を頂戴したことがありました。
差出人は松岡さんという方で、内容は「先生のファンです、掲示板をつけたらアクセスが増えて活性化し、ビジネスもよくなると思いますので是非、お願いします」と書いてありました。
勿論、広報以外の使用を考えておりませんので、いずれにしろ、その意向に添うことはありませんが、ちょっと電脳に詳しい者に尋ねたところ、「やめておけ」でした。
理由は、荒らしにあう可能性が大で、これでページを閉鎖に追い込む手口が蔓延しているとのことでした。
とりあえず、案内をお送りしておきましたが、それっきりですので、真実はわからずじまいです。
また、それより以前にはこんなこともありました。
徳間書店の編集局次長から大石さんからの手紙が回送されてきたのですが、なぜか、私宛ではなく、徳間書店に対してこう書かれてありました。
「諸葛流奇門遁甲の読者だが、夏至と冬至の際の一定期間の九宮や節気が通常期間と異なっている、我々は徳間書店を信じているので何卒、真意をくみとってほしい」
そして次長からは大石さんの質問が事実なら由々しきことゆえ、よろしく回答願うとありました。
しかし、どこをどうみても上記の質問に由々しきことなど見当たりません。
質問内容も、単に、陽暦換算における超接という期間のことにすぎず、以前からの読者ならば大半の方が承知ずみのことばかりですが、一応、その旨、説明の回答差し上げておきましたが、なんとも不思議に思ったものです。
後で判ったのですが、実はこの大石という男、どこかから、私の専門書の陰暦換算の情報を聞きつけ、徳間書店の本には嘘が書いてあり、専門書に本当のノウハウを書いているようだがと話をしていたらしいのです。
なるほど、これなら知らない人が聞けば由々しき事と思うのも無理はないなと思ったものです。
こんなこともあって、当初は陽暦換算での構成を考えていた諸葛孔明の占法にも陰暦換算を掲載したわけです。
また、Q&Aの21番、34番にも説明をしておきましたので、以後、このような考えを持つ人はいなくなりましたが甚だ迷惑な話です。
確かに、陰暦の新書判は一部の人達には好評ではありましたが、そもそもが極めて少数のニーズに対応する専門書のノウハウ、もとより大多数のニーズには合わないものですから、その結果は予想通り、ミスマッチとなってしまいました。
先に述べた自称研究者同様、この大石という男も私は一切存じ上げませんが、自身のつまらない行為が、何をもたらしたのかこの男はよく考えることです。
とにかく、私共は、著作権侵害行為と、誰かの発言によって私共の主張する学説なり、真実が毀損される場合の二点を除いて他は一切、関心がありません。
ですから、どこかの易者、占い師が嘘、でたらめの話で商売していたとしても、それに口を挟んだり、批判したり、増してや商売の邪魔をしようなどとは思ってもおりませんし、過去にもそのようなことをしたこともありません。
それらは顧客と当事者間の問題だからです。
従って、結果として彼等の商売の邪魔となる場合は、既に申し上げた通り、私の学説なり論拠が否定されるような話となったご質問なり、具体的事実があった場合において、私共がそれに対して正しい回答をした場合のみです。
ゆえに、それで不都合になる人はその人の行いそのものが間違っているのですから、早々に店をたたむことです。
それをとらえて「素人へのいじめ」というのはお門違いもいいところです。
だったら、右も左も判らない素人の前置詞をつけて自称研究者も担がれたらよいのではないでしょうか?
その土台を論理的と標榜していながら、非論理、矛盾に突き当たると、「流派」で逃げようとしたり、私のノウハウをこっそり、あるいは堂々と盗用していたりする者を担ぐことをきっぱりやめることです。
これは喩えていえば、電話機メーカーが争っているようなもので、うちの機種のほうが、より遠く、明瞭に通信ができるんだと譲らないのはいいのですが、肝心の電源コードが抜けていたり、携帯なら電池が装備されていない状態なのに、各メーカーがおのおの、よく通話ができると云ってるようなものです。
電源を暦や源の原書(煙波)に置き換えたら、巷間の遁甲がいかに馬鹿げたものであるかということが判ると思います。
演劇で使用している電話機がつくりものであっても、それで通話しているふりをしていても誰もとがめる人はいませんが、これが本物の電話機であって電源もなければ中身も空っぽの箱でも通話ができるんだということになると話は別です。
奇門遁甲でもつくりものの断わりがあって楽しく新しい占い方位術を作ろうとしている人達の趣味の団体で、担ぐ人もその代表ということなら、私も咎めたりはしません。
尤も、著作権侵害はしないようにしてもらわなければなりませんが.....。
たとえば、黄帝神技三元奇門遁甲術というのは、公立小に勤務当時の私の初作ですが、昨今、これらが、高い人気で取引されているという話を耳にしており、この本のみ筆名が違うことから、故意に別の著者として位置づけて権利関係から逃れようと画策しているふしもあるとも聞いておりますが、それらの努力は無駄以外のなにものでもありませんので、間違ってもこれで、断わりを入れなくてもよいだろうとか、単に引用表記しておけばプログラム作成にその原理を使ってもいいなどという甘い考えはお捨てくださるよう、事前に申し上げておきますので、この点にも留意してください。
表記すれば引用できるのは、学説批判の為の対比、あるいは参考データとしてや、普遍的な汎用性(どこでも入手可)のあるものに限られます。
引用はあくまでも付随的なものに対して認められるものであって作品の主体、土台となるものには適用することはできませんから、その場合は正当な対価を権利者に支払わねばなりません。
以上、弁えて適切な手順をふんでさえいれば、後日、トラブルになることはないものと思います。
然るべく対処してください。
Q56 エアポケット理論は内藤のドサクサ期間のこと?2006/06/12
A 違います。
49番のQ&Aにも書きましたが、これらは超神接気となる期間に対する「真伝」独自のノウハウであって同一の理論は世界に二つと存在いたしません。
従って、唯一の原書となっている「煙波」にもそのきまりの詳細は記されておりませんし、その他にも次のように書いてあるだけです。
節気(この場合、二至)より三元(三才変じた天地人の三元とは別)の上元の符頭である甲子の干支が先に到来してしまった場合は、二至(冬至夏至のことで神と称する)に近い甲か己の日を甲子の代用として、ここを二至とする。
従って、その名が示す通り、「超神接気」とはあくまで冬至や夏至より早く上元の甲子が来たときのみの対処法ですからその逆はありません。
それは、太陽暦でその時期が毎年ほぼ固定されているニ至を基点に局数や節気を定めてゆく仕組みなので、ニ至が先に到来したら単にその日から始めればよいからです。
これが、原書等に拠る「超神接気」です。
つまり、神(ニ至)を超えたら節気(上元甲子)に寄せるということです。
奇門遁甲が太陰太陽暦に基づいているのはこうしたところからです。
ところが、これでは日の九宮や節気の連続性はその繋ぎ目で破綻してしまうのですが、その局数や節気の対処については煙波は勿論のこと、いずれの書物にも記載されておりません。
節気が定まらなければ作盤はできませんので、易者占い師さん達は判らないということで、とりあえずこの期間は避けておくのが無難と判断したのが始まりであり、内藤のドサクサというのもこれが真相でしょう。
唯、エアポケット期間というのは原書等で云々する超神接気のようにニ至の前部の甲己との間のみを指すものではなく、それらをまたいだ前後に及ぶ期間のことですし、その名称も便宜上、私がつけたものですから、エアポケットという単語は公共用語でも、これらに当てはめるならば私のオリジナル表現ですから、他者が使用することはできません。
又、期間のみならず、九宮や節気を反転させるというノウハウも真伝独自のもので私の公表以前には存在しなかったものですからこちらも同様です。
とにかく真伝は矛盾のない整合性のある理論で構成されておりますので、先のQ&Aで述べた通り、盗用盗作の対象となりやすくこの超接の反転理論についても盗作本が出回っていないとも限りませんので、万一、これらを発見したら、当方まで送付お願いします。
繰り返しますが、これらの真伝は私が公表する以前に発行された書物である限り、世界中どこにも存在しない理論です。
ですから、もし、誰かが原書古書の類を掻き集めて研究したとしても、原書、古書に忠実である限り、反転に行き着くことは決してありません。
それは、甲子ではなくニ至に近い前部の甲己の日を基点に、そこから冬至は1局から、夏至は9局から始まるようにしなければならないからで、実は、これに従うと基点が甲子日以外は反転の数字とはならないからで、殆どが該当してしまうのです。
原書記載に忠実であればあるほど、反転からは遠ざかるものです。
勿論、人からの伝承というのもあり得ません。
(指紋のようなものがあるからです)
真伝というものは原書の欠落した部分を補填したものですからこれらを当方以外から得ることはできません。
従って、反転というのは私からの盗作以外にあり得ないというわけです。
よろしくお願いします。
Q57 伝承ノウハウにオリジナルが入る余地はないのでは?2006/12/10
A あります。
おそらく伝承というものを、ある固定観念で捉えられているものと思います。
つまり、数学の公式とか物理の公理や定理のように教師から生徒へ内容がそのまんまコピーされていくものが伝承と。
ところが真伝はそのような形で伝えることはしないのです。
具体的な内容は当事者以外には教えられませんが大筋は大丈夫ですのでヒントをご説明します。
既成の学問は先生が生徒に教授するものですがこれらは決して教えられることはありません。
じゃあ、どうやって学ぶんだですが、それは教える側はあるものを提示するだけなのです。
たったそれだけなのです。
そのあるものとは何かという話になるとこれまた具体的な話はできませんのでヒントを差し上げますのでこちらでご想像していただければと思います。
私が若い頃、少しやっていたギターのたとえが最も適切だと思いますのでこちらで説明します。
今は教本があって楽器の演奏等は楽譜が読める人ならなんとか音程を追うぐらいのものなら労なくできますが、まだ、そんなものがない戦後の初期の頃は欧米から入ってくるレコード盤のみが唯一の教材だったもので斯界の一人者となっている人達はほとんど例外なくそのコピーによって自ら楽譜を読み奏法すべてをマスターし、教本を作ったわけです。
それはレコード盤の溝が擦り切れて真っ白くなるまで日夜繰り返されたもので、私も多少経験があります。
スチールギターでいえば一台でも難しいところが複数台の演奏が納められていたりすると音の峻別から拾い上げるまでが大変で、これに変調がなされていたり、カポ付きだ、オープンチューニングされたものだったりすると何度やっても拾い出すことができないものです。
そんな経緯を経てそれらに気付き、もともとの楽譜と奏法をマスターするというわけです。
ですから、その結果は本来のものと基本的な部分では同一となってこれで初めてコピーが成功したことになります。
しかし、前述したように楽譜の部分こそほぼ同一ではあっても奏法の解釈手順は各自クセがありますので同一のものは一つとして存在しないのです。
これが真伝にオリジナルがあるという根拠なのです。
簡単にいえば運指ひとつとってもどの手順をとるか、いずれの指を使って演奏するか、その間隔やビブラートのかけ方(スチールではチョーキング等)等一人一人違いますのでこういうコピーをする手法では全く同一のものは二つとありません。
ゆえに、そうやって継承した者が作った教本と同じものがこの世界に二つとある筈がないのです。
一般の人はこれらを知らないので単純に同じものがどこかにあると思いがちなのですが本当のことを知ればあり得ないということに気付くのに時間はかかりません。
従って、真伝というのはこの例でいえば演奏が録音されたレコード盤で、伝承者は継承者候補にただ、これを聴かせるだけなのです。
そして、この楽譜と教本を作った上で実演奏をしろと命令し、その三つの課題を見事クリアーしたものだけがその時点から継承と認定されるわけで最初にクリアしたものを継承者とし以後、そのレコードを使用することはありません。
何故なら、死期が近づいていることと、継承者に渡すからです。
大体、これでおわかりいただけるのではないかと存じます。
先のQ&Aで盗作とか盗用とかと申し上げている根拠の一端はこのようなところにあるわけです。
ちょっと違いますが感覚的にすこし似ているなと思った映画がありました。
それは燃えよカンフーで主演を務めたデビットキャラダイン(だったと思う)主演のサイレントフルートです。
あらすじはそれを得れば世界最強になれるという秘伝の書を得る為、世界中から腕に覚えのある猛者が挑むも、たどり着くまでに戦わねばならない猛者に阻まれ、突破したものは久しくいない状況の中、遂に一人の男がたどり着き、そこで待っていた先代に書物を要求する。
しかし、先代は書物はみなくても位は譲るし、みないほうがいいのではとたしなめる。
それを遮って開いたその書物には鏡のページがあるだけだった。
初めは訝しげだったその顔が歓喜の顔に変わっていくクライマックスは名作といえるでしょう。
本来はブルースリーの原案で彼が演じる予定だったそうですがその意味は深いものがあります。
私が兵書ゆえ、鑑定行為等をしないのもこのような約束があることからで、まず、これが守れない人には無理です。
だからこそ、一般の人達には私が作った教本を頒布しておりこれで充分です。
なお、余談ですが、この度、先のQ&Aの52番で書いている大島義則さんという読者の方から市販の書物の範囲のノウハウを用いた鑑定をやりたいという申し出がありましたので著作権の使用で契約を交わす予定ですが、この場合も私とは一切関係のないことであり同氏の行為一切の責任を負うものではないことを明記しているものであることを付け加えておきます。
Q58 三碧年の二黒月のHNでサカの盗用を賞賛してる輩がいるけどいいの?2007/02/13
A この人物を特定したら対処いたします。
お話によると蟷螂(カマキリ)という人が私共の陽暦換算の遁甲のノウハウである人の和の原理を人沖殺と称して盗用していることは明白なのにこの人物は、あたかもそのような流派があるかのごとく嘘をついて世間に喧伝しているということ、カマキリというのはスワミデバサカの別名でもあるということも知っていながらということよく分りました。
仰る通り、この件については先のQ&Aでも口が酸っぱくなるほど繰り返し警鐘を鳴らして参りましたがまだこのような輩がいるということは腹立たしくもあり残念に思います。
ハンドルネームから推察すると気学愛好者でしょうか、もし、そうならこんな人物は気学の恥の一語に尽きます。
気学といえば古くから修学されておられた方の中に故人の高島正龍氏もおり、面識こそありませんが読者の中に何人か門弟がいたこともあり間接的にその人となりは存じ上げておりましたが、フェアな方でした。
同氏の門弟達から新門出版社刊の一口メモをみて、非常に明晰で、それでいて易の象意をズバリ読んでいるとことある毎に私を絶賛していたよと、判る人でなければ絶対に判らないこともふまえてノウハウ全体を認めていたことを聞いたときには流石と感じいったものです。
これと似た例は阿部泰山氏の高弟の一人から教えを請われたときにもありました。
当時私が二十才、相手が五十代後半、一家を成していて邪魔なプライドが頭をもたげてくるものですが両手をついて奇門遁甲を指導してほしい、月謝はいくら払えばよいかと突然何の脈絡もなく申し出てきたのには驚きと同時に流石と思ったものです。
実は判るのです、彼等には。
ある程度、自分の力で汗を流して修学した者には相手の真偽もその力量の如何もです。
ゆえにこのときは真伝との出会い前でしたから原典に忠実な奇門遁甲を教えて差し上げました。
その後、同氏の門弟の中には四柱推命の全集を上梓された方もおられるようで、私共の盗用をしている連中達も評価しているそうですがこういった経緯はおそらく知らないでしょう。
ただ、私にとっては孫弟子、彼等が飛躍しているのは慶ばしいものです。
ただ、大事なことはそんなことではありません。
それは、場合によっては自らの築き上げた牙城を崩しかねない懸念があっても、それが真実であるならば無条件に受け容れて省みない高い知性と勇気が彼等にはあったということなのです。
このように私共は深い関わり(指導実績)があってもむやみにその詳細を口にしたりはしませんが、一方で浅くても、指導を受けたことがなくても著書を拝読したり、それにて一度でも質問に回答を得たりするとそのことに対しての儀礼から「教わった」等とする流儀も持ち合わせているのです。
但し、これらが通用するのは礼節がわかっている者のみですから、下手に使うと次の例のようにとんでもない曲解を生んでしまうので要注意です。
ひとつは武田考玄で著書への質問を二、三度した際、それによる回答を頂戴したことに対して、私流の儀礼文として本に書いたところ、これをもって弟子にすり替えて立場を武田の配下にみせようと画策したり、また、内藤文穏に至っては先のQ&Aでも述べた通り、面識も手紙も一切の関わりがありませんが拙著には儀礼から先駆的な存在という一文を書いたに過ぎないのですが、どういうわけかこれをもってして武田と同じく弟子だ、配下だよろしく東洋書院刊の独楽兵法という書物で田口真堂氏と併せて私が盗作をしているとの虚偽の一文まででっちあげて生年月日時を挙げて掲載しておりましたのには呆れてしまいました。
この件に関する東洋書院への処罰は既にQ41で述べた通りで、既にその箇所は削除されてるんじゃないかと思うのですが以前のものをみたもの向けに内藤がまだ嘘をいってるぞという声も聞こえてきますので改めて説明しておきます。
なんでも内藤は私の生年月日時を知ってるのは私が教えたと云ってるらしくそれを根拠にしているようですが、これは徳間書店刊の諸葛流奇門遁甲に命数の説明をする際に私のデータとして生年月日時を記しているものですから、誰でも本を読めば判るものです。
内藤もこの徳間本から知ったわけです。
何故なら、もし、生年月日時がどこの誰とも判らないものなら腹いせの目的が達せられないからです。
つまり、徳間本に北条の生年月日時が記してある、ゆえにこれを読んだ者は、あるいは所持してる者は東洋書院の本にこのデータを記して内藤の盗作をしているんだと書けば直接書かなくても北条だとわかるだろうということで、私から教えて貰ったなどというのはなんとか関わりがあったかのように自らがついた嘘を取り繕う為に思いついた内藤の真っ赤な嘘なのです。
また、内藤文穏は本の挨星卦の表を中国に誓約書を出して伝授してもらったものと標榜しておりますが、実はこの仕組みというのは高島正龍氏独自の挨星卦とその根幹部分において同一なのです。
私はかつて高島氏の門弟を通じて陽暦換算の八門易を書籍で公表する数年前にお教えしたことがあり、その代わりに同氏の挨星卦すなわち内藤文穏の本の表の易卦の求め方を教えてあげると申し出られたことがありましたが、次の理由でご遠慮した経緯があります。
- 真伝は一つ、私の継承に足すものは一切ないこと。
- 内藤が表を秘密にしてる以上、事情の如何を問わず他からそれを知りうることは信条に反するし、それに内藤の易卦の求め方は極めて単純で既に基本は解読済みだからその必要なし、次回の新門刊で披露する。
とにもかくにも私や高島氏が公表したからこそ、内藤文穏の挨星卦のオリジナルを素人がどんどん作ってる現状があるのであって問題の三碧年の二黒月なる者も例外ではありません。
もし、我々が公表しなければ内藤は一生、書籍の易卦の求め方を教えたりしないことは勿論、あくまで遁甲と関連付けた複雑な原理で求めた易卦と標榜し続けていたでしょうからおそらく今でもあの本の表は謎に満ちた「秘伝、真伝」の卦と思われていたことは間違いないでしょう。
更に、付け加えるなら、どうして内藤と高島氏の挨星卦が同じなのかについても疑問です。
話は戻って、サカ(蟷螂)の流派だとか三元遁甲だとかが存在しない全くの虚偽であることを先のQ&Aで説明しているにも拘わらず、一体、この三碧年の二黒月なる人物の著作権感覚はどうなってるのでしょうか。
洗えば洗うほど内藤の著作権に該当するようなものはなく一方で、私共の恩恵の上にあぐらをかいてる自分を認識していない盗用者達を許すわけには参りません。
類は類を呼ぶではありませんが私共の著作権侵害をするものは必ずといっていいほどその根っこで繋がっているものです。
先のQ&Aで述べた宮崎の男からもまだ連絡がありませんが、もしかするとこの人物ともどこかで繋がっている確率が高いのではないかとと思っております。
かつてサカの知人と称する埼玉の青木さんという人からサカの著作権侵害についての情報提供があり、処罰する為にはなんでも協力するとお手紙を頂戴したことがありました。
しかしながら、直ちに行動に移りたいので証拠資料を送付要請したところ、それっきりで終わりました。
果たして本意はなんだったのだろうかと首をかしげます。
ネット社会が始まった95年以降に遁甲サイトを立ち上げた者、書籍刊行した者の殆どはそれ以前のキャリアも知識も一切ない全くの素人集団で得意なのはパソコンとネットから収集した情報を盗用して切り貼りしてそれらしくみせることくらいですから中身は全くありません。
しかし、問題はそういうことではなく、私共の盗用をしていながらその恩義も感じず、悪びれもせず、それらを後押しし、あろうことか原著者原権利者に反抗しようなどという考えそのものです。
とにかく、サカと繋がっていることは確定しておりますので、おそらく前述した根っこで繋がっている全員とも関係があるのでしょう。
従って、一人を挙げれは後は芋づる式に出るでしょうからこの三碧年の二黒月のHN使用者の公開手配を致したいと思います。
この人物を特定できる証拠をお持ちの方はお寄せ下さい。
薄謝を進呈いたします。
Q59 ある占い師が奇門遁甲の先駆者のように扱われていますが本当でしょうか?2012/06/26
A 違います。
福岡の北島さんと云う方からホームページ上で回答してほしいとの要請がありました。
ご質問ではその占い師の氏名が書かれてありましたが、それは伏せてお答えします。
Q&Aや遁甲の困りごとでほとんどの回答を割いているのはなにを隠そうまさにその人物に対して寄せられたものであり、振り返ってみると私共がホームページを立ち上げた当初からほとんどのご質問等がご本人とは云わないまでも容易にその関係者からであることが判っております。
北島さんのご質問である先駆者か否か、真伝か偽伝かの二つにつきましては、そういうわけですから、今一度、当ページのQ&Aや遁甲の困りごとを読み返していただけましたならお判り頂けると思います。
確か、奇門遁甲はもとより中国占術全般についても研究した実績はなく、2000年頃からネットを中心に登場したもののその実態が露呈されたことにより竜頭蛇尾で終わったことは周知の通りだと思いますし、そんなわけで、もう、遁甲関連はおやめになって心霊関連やマジック、催眠法のお仕事に移行されたと聞いております。
ですから、私共としましては最早、遁甲等から足をお洗いになった方のその後のご活動につきましては興味も関心もありませんし、また、コメントする立場にもありません。
北島さんのご質問が本年の四月ですから、おそらく、ずっと以前に書かれたものかその類を参考にされたものと思いますが、現状は上記の通りですのできっと勘違いされたものと思います。
なお、ウィキぺディア等の記述でしたら、これも困りごと等に記述しておりますのでそちらを参照して下さい。
特にQ&Aの4、5、6番については仰せの占い師の関係者が直接ないしは間接に関与していたわけで2000年当初は更新が忙しかったものでした。
ここ数年、私共の読者等からページの更新回数が減少しているとのご指摘を少なからず頂戴しており私共も更新することはやぶさかではないのですが如何せん、ご質問、ご意見等を反映している関係上すべての質問事項が一回りしたことと、初期の頃からの実態が実は仰せの占い師の関係者に拠るものが大半だったことも一因として自動的に減少していることご理解よろしくお願いします。
また、機をみて、相手のあることではなく、こちらから発信できる記述等を企図して更新するようには考えております。
以上、簡単ではございますが回答とさせていただきます。
Q60 諸葛孔明の占法に書いてある六星占術のH氏とは細木数子さんのことですか?2013/07/03
A 仰せの通りです。
アルファベットにしたのは特段の意味があるわけではなく、六星占術というだけで特定できるものですからあえて伏せたということでもありません。
ご承知の通り、六星とは和泉宗章氏が一世風靡した「天中殺(空亡)」に他なりません。
天中殺(空亡)の求め方は簡単ですから多くの方がご存知だと思いますが今一度、簡単に説明します。
用意するのは六十個の干支が揃った六十干支表と暦から求めたあなたの生まれた日の干支の二つです。
六十干支はそれぞれ甲から癸の十個の干を頭にした干支が六個連なっているものでして、その最初の十個が甲子から始まり、癸酉で終わります。
その次の十個の干支は甲戌から癸未となるのですが、頭の戌と次の亥の十二支は初めの十個の干からはみでていますよね
それで、順次この二つの十二支を「空亡(天冲殺)」と呼び、忌み嫌ったわけです。
たとえばあなたの生まれた日の干支が甲子から癸酉の十個の中のいずれかであった場合は、あなたの空亡(天冲殺)は戌と亥の二つの十二支となって、この十二支が巡る年月日および大運では十分に力が発揮できなかったり、不幸や災難に遭うといった具合です。
上記のしくみからこの空亡(天冲殺)は全部で六つあり、次の通りです。
甲子から始まる干支の空亡は戌亥の二つ
甲戌から始まる干支の空亡は申酉の二つ
甲申から始まる干支の空亡は午未の二つ
甲午から始まる干支の空亡は辰巳の二つ
甲辰から始まる干支の空亡は寅卯の二つ
甲寅から始まる干支の空亡は子丑の二つ
細木氏の場合はこの空亡(天冲殺)の名を六つの星に変えたことと、その求め方もオーソドックスな六十干支暦からと云う形をとらず、干支番号から干支を求めることによって、結果も仕組みも同じなのだけれども一見してかつて一世を風靡された和泉氏の「天中殺」と異なるような印象付に腐心されたところがミソだと思います。
全く同じ車なのにダイハツのOEMでトヨタが販売して本家よりヒットを飛ばしたデュエットという車がありましたが、これに非常に戦略的によく似ていると思います。
トヨタのほうが、ファッショナブルで派手なイメージ宣伝をするものですから、全く同じものでありながら売上に大差が開いた好例です。
特に顧客は機能でも内容でもなく、単にイメージ、顧客が欲するイメージを買いたいわけで本当にこのトヨタのイメージ戦略は、特に女性をターゲットにしたこの戦略は興味深いものがありました。
細木氏の場合もその大半が女性をターゲットにされている関係上、「西洋占星術」のイメージのネーミングはこれまたよかったのではないでしょうか
火星、水星、木星、土星、金星、天王星と割り振られています。
また、六星占術の発祥が非常に古いもので殷の時代に遡るというのも、当時、未発見の惑星がどうしてとも思いますが、これはご愛嬌ということでよろしいんじゃないでしょうか。
六星占術、その発祥は殷に遡ると書いてあったのをみて当時、驚きました。
ほどなく、中身は和泉氏の「天中殺」の理論を基軸にそこを運気が衰える基点として後は十二支を植物の生育にたとえていることがわかりました。
そんな次第で、細木数子氏の「六星」はまぎれもない算命や四柱推命の「天冲殺(空亡)」です。
参考になさってください。
Q61 奇門遁甲充電法等で原理は電波信号を受信するオーディオと同じとありましたが、真伝はこれに例えると「原音」再生ということでしょうか2013/12/17
A 大筋はそれで間違いありません。
あくまで判り易いたとえで持ち出したものですが、テレビにしろ、ラジオにしろ、まず、放送局から信号(映像、音声)を送信します。
これを、ユーザーのご家庭にある受信機で受信し、最後にテレビならディスプレイとスピーカーに、ラジオなら、スピーカーオンリーにという具合に受信した信号がそこを最終地点として反映されるようになっております。
今は昔と違ってデジタル時代になりましたから、アナログ時代のように送信時と受信時の信号に映像に関しては、ほとんど差異がない極めて精緻なものになりましたが、こと「信号」の流れ、すなわち順路に関しては、基本的に変わっていることはありません。
真伝のたとえの話しをする前に、オーディオではどのような経路が正しいのか、はたまた、どのような製品が正しいのか、優れているのかの説明をします。
まず、オーディオ装置を単純に分けますと、音源あるいは映像源も含めた収録対象を信号化するカメラなり、マイクがその一つとなります。
次に、そうやって収録した微弱、極小「信号」を抽出するプレーヤーがその一つになります。
次に、プレーヤーで抽出した信号を、拡大、増幅するアンプがその一つになります。
そして、最後に、アンプで増幅拡大された映像、音声を今度は人の目や耳で認知できるようなレベルまで再生するディスプレイやスピーカーがその一つになります。
整理すると以下の五つの流れのようになります。
- 音源または映像源
- 1を収録した信号
- 2をピックアップするプレーヤー
- 3でピックアップされた信号を増幅拡大するアンプ
- 4の信号を再生するディスプレイやスピーカー
大切なもの、重要なものといえば、すべてが重要であり、どれ一つ欠けても正しい再生はできません。
仰せの「原音」というのは、おそらく、1の音源、映像源のことを指しているのだと思います。
それはそれである意味、正しいというか間違いではないと思いますが、「真伝」でいうところの、少なくとも私共がオーディオにたとえた原理の「原音」というのはこのことではありません。
私共が主張している原音というのは、実は2なのです。
つまり、音源、あるいは映像源をマイクやカメラで信号化したその信号のことです。
この信号を私共は「原音」といいます。
これはどういうことかといいますと、究極の理想は1の音源なり、映像源と寸分違わぬものが最終的にディスプレイやスピーカーから再生されればよいのですが、オーディオの原理からいってこれは不可能です。
どんなに優れた写真でも「実物」と同じではありません。
それは、オーディオが機械であり、装置である以上、その差異は予め埋まらない溝として存在することを認めた上でのオーディオなのです。
もっと判り易く説明すると、どんなに優れた映像も音もオーディオ信号に変換しない限り、最終的にユーザーの目や耳に届くことはありません。
オーディオ装置で再生する限り、そもそもの始まりはカメラやマイクで収録した信号をベースにするしかないということです。
とはいっても、昨今はデジタル処理の発展が目覚ましく、こと映像に関しては、実物と限りなく近接はしております。
この前提に立って、正しい、優秀なオーディオ装置とは何かというと、次の一語に尽きます。
カメラ、マイクで拾った信号情報を損なうことなく、人の目や耳に届ける装置であり、これがオーディオ装置でいうところの原音再生である。
ところで、このような再生装置は古今東西、存在しているかというと残念ながらありません。
それだけ、この信号に忠実な再生をするということはテクノ上、大変難しいことであり、結局巷間のオーディオマニア達は、各自でカスタマイズしてそれぞれ自分の聴きたいジャンルの音がよく聴こえるように、あるいは、その音に似せるように工夫しているのが実状です。
今、日本だけでも大手メーカー、ガレージメーカー含めて多数ありますが、その多くが売りの謳い文句に採用しているのが、「原音の再生、あるいは信号に忠実な再生、音の入り口から出口まで信号を損なわない」の文言です。
勿論、この通りに実施されているのなら何等、問題はないのですが、現実にはその前提自体に疑問があるものも少なくありません。
あの装置はクラシック向き、この装置はジャズ、あれは声楽、これはロック等々、再生される音が同じソース信号でありながら、各メーカーによって大きく異なっていることが当たり前でした。
私共も、ある時期までこれらに疑問をもつことなく過ごしていたのですが、そもそものオーディオの原理原則である原音の再生、信号の忠実な再生を考えてみたところ、ありえない現実に行きあたってしまいました。
それは、信号を忠実に増幅再生したのなら、メーカーの差は大同小異のものなのに、なぜ出てくる音に違いがあるのかということでした。
音だと判りにくいかもしれませんので映像で説明します。
たとえば、真っ赤に熟れたりんごをカメラで撮るとします。
すると、今の技術ではどのメーカーのカメラを使用しても各社間で多少の差異はあるもののいずれも熟れた真っ赤なリンゴが信号化されて再生されてきます。
人物を映しても同様、風景であっても被写体の動きがあってもなくてもビデオカメラであればどのメーカーのものでもきちんと写りますし、再生されます。
もともとの映像源である実物との差異も感じないくらいです。
従って、映像収録を見る限り、信号に忠実、原映像の再生は謳い文句どおりに技術上、到達していることは判ります。
しかし、問題は音です。
音に関しては、映像のようにはなっておりません。
では、音と映像では信号が異なるのでしょうか?
印刷と同じで白黒もカラーも細分化したデータの色の諧調を変えているだけです。
シンプルにいえば単に濃淡の違いだけで無数の色を再現し、その原理で写真も絵画も、その他も選り好みすることなく対応できるように、音も映像も信号化された時点でそこから先は全く同じ流れ作業をするのですから基本的には変わりません。
オーディオのマニア達の大半がクラシックのファンであり、その次がジャズです。
だから、必然的にクラシックしか聴かない、再生しないというなか、それに応える為にメーカ-としてもその再生に特化した装置づくりをしてきた歴史がオーディオの歴史といっても過言ではないと思います。
それゆえに、なかなか、こういう素朴な疑問に辿りつかない人たちがいることも無理のないことですが、オーディオ装置というものはあくまで、電子工学機器であり、それ以上でも以下でもないことに気付く必要があります。
そこには、人為の介入する余地はなく、信号に収録された音は、それが忠実に増幅再生される装置を介する限り、収録された信号音の通りに再生されるもので、正しい、優れた装置であればあるほど、その効果は絶大です。
概して、オーディオ装置の中で再生の出来に最も影響を与えるのはアンプです。
なぜなら、ここでの増幅過程に欠陥があると、もともとの信号情報が大きく変容してしまうからで、そのように増幅された劣化信号をいくらスピーカーが忠実に再生したとしてももはや出て来る音は原音とは似ても似つかないものになってしまいます。
ゆえに、オーディオ装置の良し悪しはアンプ次第ということになります。
では、原音(信号)に忠実な増幅を謳っていながら、なぜ、特定のジャンルしか再生できないのか、録音の実態やその他を調べてみました。
その結果、結論が出ました。
それは、映像はともかく、こと、音の再生装置に関しては各メーカー共、信号に忠実な増幅再生の論理で設計製造しているのではなく、単に、チューニングをして人為的に音決め作業をしているということでした。
つまり、アンプで信号を増幅するに際して、クラシック向けのアンプでは前列のかぶりつきの音にするか、それとも二階席のようなぼやけたホールトーンにするか、あるいは、高域を強調して弦楽器等の音に似せるかなど、アンプで音の創作をしているのです。
これでは、助走のない陸上競技の高跳び、幅跳び、棒高跳びのようなものです。
助走という信号が踏切ラインの地点で制止され、そこから助走なしのジャンプに変わるのですから、いくばくだって跳べる筈はなく、信号に忠実な再生などできるわけがありません。
よく、アンプの良し悪しを見極めるには生の音を聴くのがよいということを聞きますし、そうしている人もいるそうですが、そうやって、対象となるアンプで再生してそれに近いか否かで判断するらしいのですが、これには決定的な間違いがあります。
現代で生の音といえば拡声器等を使用していないクラシック演奏か自然の音くらいのものですから、一応、クラシック演奏を例に挙げてみましょう。
再生するには録音されたCDか旧いレコード、はたまたチューナーから受信する放送がソ-ス音源となります。
ここからが重要なのですが、それでは、これらのソース音源はいずれもコンサートホールで一点マイクで客席中央から収録されたものばかりでしょうか
云うまでもなく、各楽器ごとミキシング処理したものもあれば収録位置もマイクの数もバラバラです。
もし、収録音源に忠実であるというのなら、二階席で録音したものはどんなオーディオ装置でも二階席の位置の音場も含めた再生になる筈ですし、かぶりつきなら同様にかぶりつきの再生に、そして、ミキシングされた音はそのいずれにも該当しない無機質なものにならなければなりませんが、不思議なことにどういうわけか、それぞれ、どんな音源でもチューニングされた音の傾向で再生されるのです。
これは、論理的にあり得ないことです。
この結果から導きだされるものは、先に真っ赤な熟れたりんごの話しをしたたとえを用いると、このようになります。
メーカーが決めたチューニングが青であった場合は、それがたとえ真っ赤なりんごでも、はたまた紫や黒のぶどうでも青りんご、青ぶどうになってしまうということです。
だから、このようなアンプで他のジャンルを聴くと、全く音源と違う再生になってしまうのですですから、優れたアンプを製作する為に必要なことは生の音を聴いて似せてチューニングをするのではなく、生の音を収録した信号をどれだけ忠実に増幅できるかであって、このようにして製作された製品があればそれは素晴らしいものですが、前述した通り、そのような製品は残念ながら存在しません。
よく考えてみてください。
カメラの機能、性能が優れていれば、被写体がなんであれ、忠実にそれを写し、記録するものです。
被写体が青であれば青、赤であれば赤、白であれば白といった具合に得手不得手はありません。
なぜなら、カメラは光学機器だから被写体がなんであれ、信号として認識するものはすべて同一だからです。
オーディオも同じ、青がクラシックとしたら、青は再生できるけど、赤のジャズは今イチとか白の自然音、黒の人工音は全く駄目なんてことは本来あり得ません。
でも、現状はこの通りです。
完璧なバッティングマシーンとはバッティングゾーンに投げ込まれたボールならどのコースどの球種でも確実にジャストミートするというのが定義となります。
投げ込まれる球をオーディオ信号に置き換えると、バッティングマシーンはまさに中核をなすオーディオアンプです。
信号に忠実なアンプはそこに含まれている一切の情報を洩らすことなく完璧に増幅し、スピーカーへ流します。
当然、SPからは原音が再生されます。
これが正しいアンプですが、間違ったアンプだとこうはいきません。
クラシックをストレートとすると、直球のしかも特定のコースだけはジャストミートするけれどコースが違ったり、変化球になると途端に三振の山が積み上がるといったことになってしまいます。
前者は信号を的確に捉えて増幅する仕組みに対して、後者は信号を捉えているのではなく、再生音を生の音に似せるよう、音決めチューニングをしているからです。
ストレートをジャストミートする結果だけをみれば、両者に違いはあまり感じないかもしれませんが、信号増幅器としての役割を考えたときに、その差は甚大で質的に異なります。
それは、前者はオーディオアンプで後者はイコライザーのようなものだからです。
話が長くなりました。
奇門遁甲のたとえに戻ります。
真伝における「信号」に値するものは暦やそこから導き出されるデータです。
それに忠実に作盤等をして判断、行動を起こすことがベター、ベストというシステムということです。
また、人も電動体の受信機のようなものですから、信号を的確に捉え、八方位それぞれのチャンネルに合わせることにより、送信内容を目的別に受信できると考えてください。
オーディオの世界では人為的に設けられた放送局から信号が送信されますが、奇門遁甲の考えでは自然界の至るところに自然の信号が送信されており、それを受信できる受信機を人は皆持っているとします。
しかし、いくら受信機を持っていても、そして、信号が送信されていても、受信機を作動させ、更に、送信局の周波数にチャンネルを合わせないと受信できません。
その自然のオーディオ装置の受信の方法を教える学術が奇門遁甲ということです。
また、仰せの乱立している奇門遁甲についての件も現状のオーディオのたとえで申し上げた通りです。
つまり、真伝以外のものはすべて「信号(暦データ等)」を捉えていないのですから、そこからどのようにしても受信はできないということです。
信号こそが原音ですから、この信号なくして、原音の再生ができることはありません。
Q62 真伝に著作権は発生しないのではないでしょうか?2016/11/15
A 発生します。
仰っている意味というか云わんとすることはわかります。
つまり、歴史の産物、遺産(レガシー)ともいうべき学術理論は公共利用、活用できるものだと思うし、まして、その著者たるや古の先賢諸氏だから、それを紹介したのが私どもであっても、私どもが著作権者として独占使用、活用をするのはどうかというご意見だと思います。
非常によいご質問だと思います。
確かに、その額面通りならば仰せの通りかもしれません。
しかし、ご質問には肝心なところが見落とされております。
著作権というのは、著作者が独自に創作したオリジナルに対して発生する権利です。
ゆえに、唯一無二であり、二つとあった場合は、先に発表された者が真の著作者であり、著作権者となります。
ご質問の趣旨と著作権の定義に照らしながら私どもの著作である「真伝」を検証してみましょう。
検証ポイントを挙げると概ね次の二つです。
1. 有史以来、古今東西において、私どもの著作内容(真伝の原理、理論)が書物等で著されているか?
2. 私どもの著作内容(真伝の原理、理論)は現存する原典の古典と矛盾なく合致しているか?
おわかりと思いますが、1はノーであり、2はイエスです。
仰せのご意見は、主に2の内容により、本物(真伝)とご評価いただいた所以と思いますが、1の内容にも目を向けていただかなくてはなりません。
すると、私どもが発表するまでは国内はもとより、世界中においてもこの学術理論は存在しなかったということが立証されます。
だから、私どもの著作物として著作権により保護される立場にあるわけです。
じゃあ、オリジナルの創作なのか、ならば、真伝とはいえないのではないのかという疑義も当然です。
そこで、いまひとつ考えていただきたいと思います。
それは、化石の原理、プロセスのことです。
現在、マンモスという象は地上に生きた状態で存在しておりません。
ずいぶん前に絶滅しました。
でも、誰一人、マンモスが過去に存在しなかったと主張する人はいないでしょう。
でも、それは、シベリアの凍土から保存状態のよい遺体が発見されたからというかもしれません。
では、一度も生息時の状態も遺体もみたことのない恐竜やアンモナイト等の化石はどうでしょうか?
ほとんどの方がかつて地上にこのような生物が存在したことに疑義を持っておりませんし、実在の絶滅生物と確信している筈です。
では、一度もみたことのない絶滅生物の存在を人はなぜ、信じることができるのでしょうか?
それこそ、化石のプロセスが科学的に立証されているからにほかありません。
年代測定の炭素14の性質も然りです。
これらの化石、炭素14のプロセス検証の結果が検証ポイント2だとみていただければ、「真伝」の証左になることがお分かりいただけると思います。
ですから、まとめますと、真伝ではあるが、私どもの著作物であるという一見、二律背反するような形ではあるけれど、これが、現実の権利関係ということです。
もう少し、分かり易く説明すると、2の部分を国際社会が公式に認定でもしない限り、私どもの著作物は法的には私のオリジナルの創作という範囲を超えないので、通常の著作物として、著作者である私どもが独占使用できる権限があり、もし、これを侵害するものがあれば、著作権侵害に該当するということです。
かつて、マダガスカル沖で久しく絶滅したと思われていた古代魚であるシーラカンスが捕獲されて世界中の耳目を集めたことは記憶に新しいと思います。
この例も然り、シーラカンスはそれまで化石等でしかその存在を確認することができなかったのです。
それが生きた「化石」として評価された所以は、捕獲された魚と古代魚であるシーラカンスの特徴その他がすべて化石等と合致していたからにほかありません。
つまり、ほとんど進化退化をすることなく化石時代同様の状態を保持したまま、生息していたからで、実に驚異的なことでした。
出版の意義というのは、ここにあるわけであり、その意味である意味生きた化石である「真伝」を世に出してくれた徳間書店(担当者)には感謝とともに敬意を表しております次第です。
ですから、仰せのご質問に対しましては、真伝であっても著作権は私どもに帰趨するということになります。
過去にも同様のご意見を仰った方がおられましたが、どうか、正しくご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
Q63 新門出版社刊の専門書に伝授の掟を破ると恐ろしい組織から報復されるとありましたが、その団体とはもしかして諸外国からカルト認定されている巨大な組織のことでしょうか?2018/12/27
A 違います。
仰せの組織団体のことは私もよく存じ上げておりますし、非常に恐ろしい行為に至る事例は、知る人ぞ知るまさに公然の秘密のような存在ですが、名称については差し控えたいと思います。
あの文章を書いたときは確か昭和59年頃で、まだ、徳間書店からの上梓にも至っていないときですが、正直書こうか否か迷ったものです。
それは、私的にはその内容自体がやや荒唐無稽な感がしないでもなく著者としてのプラスマイナスイメージを考えたときにマイナスではないかと思ったからです。
しかし、私の立場をこれまた考えると「伝える」ということに背反しないことが必須であって、責務でもありますので聞いたことをありのまま記載することにしました次第です。
ですから、その組織団体の行為等に鑑みると、もしかして、その組織と同一なのではと思われるのも無理はないことよくわかりますが、少なくとも「真伝」とはその関与も含めて一切の関りはございませんのでご安心ください。
話は戻りますが、私でさえ、当初、荒唐無稽に感じたくらいですから、よもや、世間一般、少なくとも拙著をお読みになられた方の中に「反応」する人などいないだろうと思っていたものです。
しかしながら、その後の私にふりかかる災難等を検証する限り、「ビンゴ」の組織なり団体が実在していたとしか考えられません。
ここでその災難のすべてを羅列するわけには参りませんが、節目節目に起こった出来事を以下に紹介してみますのでよく考察してください。
1、徳間書店での初上梓は昭和60年の6月ですが、実際はそのひと月前には本は完成していました。
発売を待つばかりということで担当者と編集関係者と飲みまして帰りは午前様になりました。
東京から千葉駅までタクシーチケットで帰ったのが午前四時頃、その日は天気もよく初夏だったこともあり、夜は完全に明けて明るい日差しが街中を照らしていました。
駅前に駐輪していた自転車に乗り換えて一キロ先の自宅まですれ違ったのは自転車をこぐ壮年の女性一人でした。
帰宅後もぐっすりで、起きたのは昼すぎでした。
悪酔いもせず、何事もない一日が過ぎ、翌日、外出後帰宅すると一階ロビーの郵便受けの横に紐で繋ぎ合わせた等身大の段ボールに私のいで立ちと酷似したイラストが書かれてあり、その横に次のような「容疑」が書いてありました。
昨日、某住人の玄関前に吐しゃ物がありました 不審者のイラストです 情報によると昼間もこの付近を徘徊しているようなのでご注意ください。
というような内容でした。
明らかにそのイラストは私を指しているものでしたが、全く事実無根のことなので気にすることなく部屋に帰るとほどなく、管理人が訪ねてきて、表札にある一鴻さんという方はおられますかと訊くので出版前の私の著書を渡して一人住まいであることを説明すると納得して帰られました。
その後、三十分くらいして外出するときには掲げてあったイラスト等は撤去されていました。
その後の管理人の態度から見る限り、誰か住人の中の悪意のある者がでっちあげの嫌がらせをしてきたのだろうと当時は思っていたのですが、今にして思えば、私が東京で気持ちよく打ち上げで飲んでる時からその組織団体はストーキングリサーチしていたのでしょう。
実はこのマンションに移転する経緯は私の読者の親戚が経営する不動産会社を通してのものであり、移転の際には隣近所関係者には挨拶済みだからなんとも不思議でした。
それから半年後くらい経ったころ、管理人とも顔見知りとなったことから自家用車の買い替えに伴い、古い車を業者が処分にくるまでの間駐車保管場所に困っていると相談したところ、マンションの敷地内の裏の空き道路に停めることの許可をもらってその数日の間、夕刻のしばしは車内でカーステレオを一人で聴くのが日課になっていました。
理由はマンション故、音楽鑑賞は隣近所に迷惑になることを避けてのことだったのですが、ある夜、いつもの通り音楽鑑賞してると後ろに異変を感じました。
振り返ると、パトカーが赤色灯を点灯させてすぐ後ろにいるではありませんか
しかし、ここでも、私には関係のないことだからとスルーしているとパトカーから警官が降りてきて運転席の窓を叩きます。
要件を尋ねると、どうも要領を得ない受け答えをするし、一方的に「ここで何をしているのか」と訊くばかりです
自分の車で自宅の許可された敷地内で何をしていようが関係ないだろうと言い返すと、とにかく免許証をときます。
ところが、私は車を運転するために車にいるわけではないので免許証は自宅においたままだと告げると、では住所氏名を教えてくれときました。
驚いたのはその後で、住所を述べたその瞬間に警官たちは「えー!!」と言って困惑狼狽したことです。
その後の態度は一変して丁寧な受け答えに変わったのですが、私にはその理由がわかりませんでした。
警官が確認したのは次の事項です。
この車はあなたのもので、毎日、この場所に停めてあり、同じ行為をしていたんですか
それで、あなたはこのマンションの住人なんですか
そうだと答えると、実はこの先の方で車の盗難事件が発生していて巡回パトロールをしているんです。
大変失礼しましたと云って去っていきました。
リラックスするために近隣に配慮しながら車内で音楽を聴いていたのがすっかり台無しにされたので所属の千葉中央警察に詰問したところ、実は匿名でマンションサイドから車上荒らしがいるとの通報を受けたことまではわかったものの、あくまで匿名ということで誰が通報したかは答えないままでした。
常識で考えればわかるのですが、我々が110番通報する際に匿名で受け付けされることはありません。
おそらく、住所を尋ねたときに通報者と同じマンション住民ということが分かった瞬間にこれはいたずら嫌がらせに利用されたとして、ひたすら狼狽したのでしょう。
2、また、それから半年後くらいには、今問題の危険運転の類の被害に遭っています。
妻と太東岬の灯台ふもとの海へドライブしていたときのこと、灯台へゆく道と海へゆく道との分岐点で、海へゆくその枝道の前を塞いで停車し、立ち話をしている二人の中年男性がいました。
当然、私たちに気づき車をどけるものと思っていたところ、手前で待機していた私の車に猛スピードでバックしてぶつけてきたのです。
相手の言い訳は後ろが見えなかったですが、車に乗っていたのではなく、車の外で立ち話をして私の車が迷惑しているのを見た上で車に乗り込んで前進ではなく、バックするのは故意以外のなにものでもありません。
3、その後、茨城の鹿島に移ったときにはその組織団体からの入信勧誘がありましたがお断りしております。
その前後に不可解な近隣トラブルもありました。
茂原に移った際には、本人の知らない内にガスの引き落とし口座が変更されており、未納督促のはがきがガス会社から送付されました。
その内容は、取引事実のない京葉銀行東金支店に郵便局から変更され、引き落とし不能とのことでした。
そこで、ガス会社、京葉銀行東金支店に確認しました。
結果は、ガス会社のいたずらでした。
京葉銀行の調査結果によると当該口座は架空口座ゆえ、当行は仮にガス会社から変更の手続きがきたとしても受付できないそうです
受付できないということは、引き落とし不能ということもその前提がないので不可能で、ましてや、未納督促など発生する筈がないとのことでした。
行員は本人の承諾なく、郵便局の引き落とし口座を変更することは印鑑もいるのにできないはずなのにガス会社はどうしてできたのか違法行為に首をかしげていました。
これをガス会社にぶつけるとハガキがミスだった、郵便局に戻しておいたですが、のちに会社として謝罪がありました。
郵便局に至っては、定額貯金の満期がきても通知が来ないので調べると担当した女性職員が窃盗したことがわかったものの、郵便局が認めないので刑事告訴したところ、133万余の横領を検察は認めたものの、満期時に公訴時効満了ということで逮捕起訴できない、かたや郵便局サイドはこの事実をふまえても公訴時効満了だからといって民事責任を負う気はないと突っぱねたままという次第です。
4、話は変わって、白子に移る前、キリンビールの懸賞で自転車が当選しました。
賞品はよかったのですが何分スポーツタイプのものでしたのでほぼ未使用状態で県内のリサイクル店に売却し、白子に移転しました。
そんなことも忘れていた十年後の日曜日の午後四時ころ、千葉県の市川警察の警官から電話がありました。
警官 「北条さん自転車をリサイクル店に売ったことはありませんか」
私 「ありますが何か」
警官 「実は北条さんが売った自転車を買った人がその後市川管内に移転してきて廃車にしたいとのことなんです」
私 「ところで私の電話番号はどうしてわかったんですか」
警官 「自転車の防犯登録シールの番号から検索して知りました」
私 「その自転車を売却した時点は茂原です また、防犯登録はしないで売却したのでありえません」
警官 「そんなことはない、こちらには自転車の登録番号がある」
この時点で私は売却した自転車は大正製薬のリポビタンDの懸賞品とばかり思い違いをしていたのをいいことに、警察のほうでは白子に移転後に懸賞のあったリポDの自転車が当り、それをリサイクル店に売却したものとし、配達した茂原の自転車店も抱き込んで嘘をついてました。
私は、リサイクル店に売却した時期は茂原にいたときだからあり得ないんだというと、市川警察の警官の上司が電話で家族はいませんか、家族に代わってもらえませんかというので、理由を聞くと答えない、
その内、本性を現し、こう言いました。
「あのー、精神科に通院しているとか、治療履歴がありますか」
悪ふざけを注意叱責して電話を切り、その後、再調査をするとやっと真相がわかりました。
リポビタンDの当選品と思っていたのは記憶違いで、実はキリンビールの当選品だったことです。
これで当選時期もリサイクル店への売却時期も私の主張通りの茂原に居住していたときだから、警察も配達したという自転車店も全員嘘をついていたいたずら嫌がらせだということが立証されました。
で、どのような申し開きをするのか市川警察の当該上司警官に電話で問い質したところ、「事実が分かってからは俺ら、なんも云ってないやろが それでええやないか」ですがよいわけがありません。
存在しない登録番号等、嘘をつき、いたずら嫌がらせをした経緯の説明、申し開きの義務責務があります。
この他にももっともっと重大かつ看過できない事例はありますが、ここではこのくらいにとどめておきます。
最近では、危険なあおり運転が問題視されておりますが、全く同じことを私も何度も経験しており、重要なことはこれらの一連の行為が実は一本の糸でつながっているということです。
いつから、私がターゲットになったのか定かではありませんが、少なくとも徳間書店から上梓する段階で始まっていたことは間違いありません。
この当時、この組織等に金を払っておくように示唆されたことがありましたが、私は冗談と思っていました。しかし、「おまえ、つぶされるぞ」と心配していた表情は真剣そのものだったことを思い出すにつけ、事情通ならではのことだったんだと今にして思います。
とにかく、この世の中には法律、規則、ルール等よりも優先するカルテルのような非合法なものがあり、それがゼネコンの談合となり、かつての映画界の五社協定となり、地域社会の村八分となったり、もろもろに形を変えて社会を巣食っていくわけで、その兵隊が宗教の名のもとに集う一般市民というわけだから、まさに正常な細胞が変化したがんそのものです。
その結果、タレント、アイドルを潰したり、政治家を潰したり、しかも、その行為にれっきとした各界が協力するというまさに「狂気の沙汰」であり、その犠牲になったものは少なくありません。
まとめ
謎の組織団体については以上ですが、真伝の伝授等の掟というものはこういう非合法な反社会組織のようなものではなく、常識、良識を重んじる人たちの決まり事ですから、少なくとも合法の域を超えるものではありません
したがって、上記のような行為を行う組織団体とは全く関係がありませんのでご安心ください。
童話の北風と太陽のように、悪い組織団体が非合法でねじふせようとするのに対し、太陽はあくまで合法に良識、常識に照らして諭してゆこうとする対処団体組織と思ってください。
この例でいえば、北風が悪魔で、太陽が神というような、まさに対照的な立場の存在といえるでしょう。
以上、ご質問への回答とさせて頂きます。
Q64 退会して久しいのですが、もう一度、勉強したいので再入会できないでしょうか ?2019/12/20
A ご事情は分かりますが、お薦めはできません。
徳間書店から上梓した以降、および、それ以前からの読者、修学者の中にはあなたと同様の理由で再び修学したい旨のご希望を仰る方が少なくありませんし、それはここ数年で増えてきております。
私も、単に商売ビジネスという観点からだけみれば、無条件に受け入れるのがセオリーかもしれませんが「奇門遁甲」とりわけ真伝というものはもっとシビアなものですのでよくよく再考されるのがよろしいかと存じます。
かつて退会された面々の理由は様々ではあると思いますが、おそらく共通しているのはご自身で解答をお持ちであったのではないかと思うのです。
そして、自らが用意している正答をいつ出してくれるんだ、いつ教えてくれるんだ、私どもがお出しした結論と正答が違うということで退会に至ったのではないかと思います。
一般論になりますが、何を学ぶにしても学ぶ側がある一定の結論をお持ちですとどのようなアプローチを施しても修学は完了しません。
なぜなら、教えてもらう側が答をもっているなら教わる、修学する必要がないからです。
スポーツでも学術でも芸術でもどんな分野でも同じで、単に自身の答に欠落している箇所を補いたい、そこだけ知りたい、教えてくれたらよいでは根本的に間違っておりますし、決して正解にはたどり着けません。ボクシングジムに通っていたがやめたという人の理由を若いころ聞いたことがありますが、何年通っても縄跳びだけしかさせてもらえなかったというものでした。
私が思うのはその人はボクシングの適性がなかった、つまり向いていなかったんだと思います。
基礎ができていない状態で上積みのトレーニングスパーリングなどさせたら取り返しのつかない事件事故につながるので、そこから指導していたのでしょうが、指導者側からのOKが出るに至らなかったのでしょう。
従って、その人がボクシングをやめたことは双方にとって良い選択と思います。
私どもも、代金を頂戴しながら書籍形態のテキスト等を頒布しているわけですから、顧客の要望にお応えするべくきちんと真伝のノウハウ等を記載しており、お約束等には背反していないのですが、顧客の中には前述したようにご自身でそれぞれのお答えをお持ちの方が理解できないままとなって、その挙句、また、近年にぼつぼつと再入会を希望されているのが現状です。
よくわからない人の為に、もっと分かり易くこれを説明します。
たとえとしては不適切であることを承知の上で申し上げることを、ご了承ください。
もし、あなたにとって憧れの女優、モデル、タレント、歌手、その他スターがいたとします。
あなたは、一度でいいからそのスターと至近距離で会いたいと思い、それを実現してくれるコーディネーターに依頼したとします。
しかし、約束の期間、待てど暮らせど、そのスターがあなたの前に現れることはありませんでした。
少なくともあなたはそう思っていたわけです。
しかし、年月が経ち、そのスターのスケジュールを知ることができると、当該約束期間内にあなたのところへ訪れていることがわかりましたが、あなたにはその意味が、真相がまだわかりません。
あるとき、楽屋にきたどこの誰かわからないご婦人がメイクを完了し、衣装を整えたその姿を見たとき、あなたははじめて知るのです。
あなたの憧れのスターは間違いなく、あなたの至近距離にあのとき来ていたと.........。
コーディネーターが約束したのは、スターのいで立ちのご本人ではなく、ありのままのご本人を派遣したにすぎません。
「真伝」も同じで、スターのメイク、衣装等のいで立ちはカバーしておりません。
この部分が「秘伝」に該当するものですが、それはこちらから教えるというものではなく、修学者自身がカバーするものなのです。
昔から「心卑しき人に奇門遁甲を教えるべからず」と訓戒がありますが、もっと突っ込んだ言い方をすれば教えないのではなく、修学者自らが修学を忌避、拒否しているということにシステム上なりますので、結果として、訓戒通りになるのが妙なところです。
スターのたとえでいうと一人だけ、スターをゲットできた人がいたとしますと、その人は本物のファンであって顔や衣装やその他の立ち居振る舞いではなく、顕在の不変の身体部分(首、手足)の個人を特定できる特徴のみをみていて、この人に間違いないと見極められたということになります。
ちなみに私もスッピンのスターの純粋なファンの一人であったということです。
お止めになられた方々のその後というのは、おそらく、内外の書籍、指導者等をいろいろ回ってみたけれど、勉強すればするほど、知れば知るほど私どもの公開している「奇門遁甲」に優る理論構築は存在しないことを悟ったのだと思いますし、それはそれで偉大な一歩ですがもう一度、最後尾に並ぶお覚悟があるか否かに尽きます。
もし、退会時の列順とお思いになっていらっしゃるようでしたら、悪いことは申しません、ご縁がなかったものとしてお納めいただければ双方ともにベストの選択と存じます。
私のもとへは、過去、1000件を超える質疑が寄せられました。紹介しているものはその一例ですが、すべて論理的に回答さしあげて参りました。
奇門遁甲や四柱推命の「リング」や「将棋盤」はこのような論理的質疑応答ですから、上記のように公明正大な手法で検証してゆきましょう。
ご遠慮なく、当方まで郵便でお寄せ下さい。